豊橋周辺での蚕糸(さんし)業は、奈良・平安の時代までさかのぼることができる。延暦(えんりゃく)十五年(七九六)、三河・伊勢などの国から養蚕(ようさん)に習熟した婦人が東北地方に派遣され、養蚕の指導にあたった事実が「日本後紀(にほんこうき)」に書かれている。明治になって再びこの地方の蚕糸業が脚光をあびるが、羽田野敬雄(はだのたかお)は明治三年(一八七〇)、いち早く「参河国養蚕由来記(みかわのくにようさんゆらいき)」を著している。
参河国養蚕由来記
豊橋市中央図書館蔵
明治八年(一八七五)四月、柴田豊水(ほうすい)・小久保彦十郎(ひこじゅうろう)らにより、三河地方で初めて蚕種業専門の機関として豊川組が結成された。ねらいは組合員が各自の所有する桑園で桑を栽培し、蚕(かいこ)を飼い、組合がとりまとめて出荷・販売し、利益を得るというものであった。
一方、渥美郡上細谷村の庄屋であった朝倉仁右衛門(にえもん)も、開国以来、生糸が重要な輸出品になることを見越し、生糸の生産に着目していた。養蚕の将来性を確信した彼は、これといった産業もない貧しい農村を豊かにするために、明治に入ると長野県産の桑苗の栽培を村に広め、実行に移した。
こうした仁右衛門の先見性にもかかわらず、製品販売にはまったく未熟であったため、養蚕農家の利益は見るに忍びないものであった。養蚕をいくら奨励しても販路が不安定では、養蚕家は働いてくれないことがわかった彼は、明治九年に小久保彦十郎・柴田豊水、実弟の小柳津忠民(ただたみ)・朝倉佐野四郎(さのしろう)らと協議し、豊橋本町に五〇人操(ぐ)りの座繰(ざぐり)製糸を始めた。これが豊橋における最初の製糸業であった。
しかし、この試みは先進地信州の製糸業に比べ技術不足もあり、半年で失敗してしまった。