座繰製糸から器械製糸へ

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 明治十年(一八七七)、仁右衛門らは各自で桑苗を持ち寄り、労力を提供しあって蚕の共同飼育をおこなう赤心組(せきしんぐみ)を結成した。組合員はおよそ三〇人であったといわれ、そこからあがる収益はすべて積み立てて製糸業の創設費にあてた。

朝倉仁右衛門

 続いて、前田伝次郎(でんじろう)は仁右衛門らと協力して、明治十年に再び上細谷村に座繰製糸を始めたが、これも技術不足で失敗してしまった。
 一方、小久保彦十郎も、柴田豊水、小柳津忠民(ただたみ)らと共同で東八町に五〇人繰りの座繰製糸場を創設した。しかし、当時は交通も不便で製品の販売も手数を要するばかりであった。たとえば、横浜の商人と取引きをするには、その間に名古屋洋品店を通して製品を送らねばならず、こうした間接取引は事業の発展に支障をきたした。このため、明治十六年には、横浜の商人と直接取引きする必要があると考え、彦十郎自ら名古屋に進出して中央市場を創設した。しかし、製糸業の経営改善ははかどらず、愛知県からの借金を返納することも難しくなり、ついに廃業に追い込まれていった。
 また、柴田豊水が同じ時期に、士族授産の目的で関屋に設立した座繰製糸場も同じ運命をたどった。
 赤心組結成後、仁右衛門は小柳津忠民とともに長野県など製糸業先進地の視察旅行に出た。その結果、座繰製糸の生産能力では製品の品質や販売などに限りがあり、地方産業振興の実をあげるためには、どうしても器械(きかい)製糸でなければならないことが分かった。さっそく、組の仲間に報告するとともに、器械製糸の操糸法を習得するために伝習生を派遣する準備を進めた。官営模範(もはん)工場への伝習生派遣の許可願いを農商務省に提出し、明治十二年、豊橋地方から選抜された良家の子女を中心にして群馬県の官営富岡製糸場へ伝習生を派遣した。富岡製糸場では全員が熱心に研さんし、成績も優秀であったと伝えられている。
 明治十三年、仁右衛門は当時の先進地であった福島県の二本松製糸および三春三盛社へも広田辰次郎(たつじろう)、前田桂次郎(けいじろう)の二人を派遣し、蚕糸経営を研修させた。
 これらの先進地で技術を学んだ者たちの帰郷を待って、明治十五年(一八八二)の秋、上細谷村に資本金五千円で愛知県最初の株式組織として細谷製糸会社を創設した。豊橋で初めての本格的な器械製糸工場である。朝倉仁右衛門が社長に、前田伝次郎が支配人となり、伝習から帰った前田桂次郎・広田辰次郎が工場の監督にあたった。当初、仁右衛門は無給で工場に詰め、工員とともに作業にたずさわった。

細谷製糸株式会社

 動力は初め水車による水力利用であったが、明治十六年六月より蒸気機関を採用した。同年秋、工女四〇余人を集め、五〇人取りの工場規模で操業を開始した。
 技術面、経営面など万全の態勢を整えたにもかかわらず、この細谷製糸会社も発足して三か年ほどは先駆者のなめる苦労を味わった。繭の保管、製品の品質保持、そして販路など克服すべき難問を多くかかえていた。加えて、当時の日本の経済基盤が大規模な器械製糸を育てるほどには整っていなかったこと、政府の財政引き締めにより不景気の波が製糸業にも及んだことなどが背景にあった。
 明治二十年代になると、ようやく全国的にも共同出荷による経営の合理化や器械製糸の技術的な改良がおこなわれ、その生産額を増加させた。細谷製糸会社も二十六年には、商法発布とともに細谷製糸株式会社と改め、資本金も二万円(後、六万円)と増額し、工場規模も二十七年七二人取り、三十年一〇二人取り、四十二年一二二人取りと拡大した。
 この時期、各農家では自分の家で座繰製糸を副業とするようになり、各地で組合が結成されていった。明治二十年代の半ばごろまでは座繰製糸による生産は器械製糸を上回るほどであった。
 その後、日本資本主義の発達とともに生糸の輸出が拡大されると、器械製糸工場も増加していった。明治二十九年(一八九六)には三浦碧水(へきすい)、遠藤安太郎らによる豊橋製糸株式会社が設立された。ほぼ同時期に三河製糸株式会社も発足するなど、豊橋地方の器械製糸工場は増加の一途をたどった。同様に県下の器械製糸工場も増えはじめて県内生産量も伸び、全国的な位置も三十一年の第八位から、三十九年には第四位へと進み、大正期・昭和前期製糸業の基盤が整えられた。
 製糸業の発展につれて桑畑も増加し、養蚕は農家の副業として確立し発展した。
豊橋地方の製糸工場数
    豊橋市域のみ、10人繰以上
年次器械座繰玉糸
明治28年95
31年2329
35年2042
40年33152
「豊橋市史第三巻」より