小淵志ちの経営する糸徳(いととく)製糸工場の寄宿舎に住む女工は、遠州地方から募集された者が多かった。およそ一二歳ごろから働き始め、二〇歳すぎに結婚とともに退職というのが一般的であった。
寄宿舎での生活は、かなり規則正しいものであった。起床は午前五時、洗面・朝食・国民体操・掃除の後、六時から十二時まで仕事をし、十二時四十分までが昼食と休憩、午後六時まで再び仕事、七時までに夕食・掃除・入浴を終え、八時には消灯合図の太鼓が鳴らされ、九時には就寝となる。
一日の実労働時間は一一時間二〇分であり、休息を入れた一二時間の拘束は幼い女工にとっては大変厳しいものであった。しかも、これは大正五年(一九一六)に公布された工場法により、一日の労働時間が一二時間以内に定められた後のことである。それ以前には一四、五時間に及ぶ工場もあったと想像される。
休日は現在のように週休ではなく、月に二回、第一・第三日曜が休みであり、盆休みは一〇日間ぐらい正月は七日間ぐらいあった。
賃金は、大正末年で養成期間の三か月は一日二五銭が支給されていたが、うち一〇銭を食費として差し引かれた。手元に残るのは一五銭であった。この金額は米三合が買える程度であったという。養成期間が過ぎると能率給となり、出来高や品質により賃金に差がついた。場合によっては手取りのない者まであった。
昭和元年~19年頃の糸徳製糸工場の女工の賃金 |
成績 | 1ヶ月の賃金(円) | 1日の賃金(銭) | 購入できる米の量 (升) | 現在の金額に換算 (円) |
上位 | 20以上 | 71以上 | 2.8以上 | 999.6以上 |
中位 | 12~19 | 42~68 | 1.7~2.7 | 606.9~963.9 |
下位 | 10 | 35 | 1.4 | 499.8 |
養成工 | 5 | 18 | 0.7 | 249.9 |
〔注〕1ヶ月の労働日数28日として計算 1930(昭和5)年の米価1升25銭をもとに計算 昭和57年頃の配給米1升約357円をもとに計算 | 「小淵志ちと女工の生活」より |
糸徳製糸工場では、松・竹・梅・桜・菊の五つの寮があり、八畳に少ない時で三人、多い時は八~一〇人で住んだ。女工たちは、一日一一時間以上の労働で疲れた体をこの部屋でいやし、故郷へ手紙を書いたり、学習していたのである。食事は主食として玄米、副食として朝食はみそ汁とたくわん、昼食は野菜や豆の煮付け、ねり製品という現代からみればおよそ粗末な食事であった。それでも、時にはおしるこや五目飯がでることもあり、町に出て食事をする楽しみもあった。
また、工場内に糸徳青年学校があり、曜日によって科目が決められ、いろいろな学習内容が労働の終わった午後七時から一時間ないし一時間半ほどおこなわれた。この他、学芸会・運動会など各種の行事や娯楽もおこなわれた。同時に、工場内で各種の精神修養の教育も受けることができた。
糸徳製糸の夜学教育
現代の感覚からすれば、ずいぶん悪い労働条件であるが、それでも糸徳工場は当時としては条件のよい方であった。他の工場ではこれよりさらに過酷な労働を強いる場合が少なくなかった。事実、糸徳工場で働いた女工の多くは、工場に対して感謝と尊敬の念を持っていたという。
女工たちの製糸工場における厳しい労働の代償として得た賃金は、確かに貧しい農村の生活を支えはした。しかし、それ以上に、製糸工場で青春をすり減らした彼女たちは、この時期、日本が富国強兵(ふこくきょうへい)・殖産興業(しょくさんこうぎょう)の号令の下、めざした資本主義国家形成の陰の主役でもあった。
豊橋の主要工産物生産額
玉糸の生産量(昭和5年)
生糸の生産量(昭和5年)
小淵志ちと糸徳製糸工場
小淵志(こぶちし)ちは、弘化四年(一八四七)群馬県に生まれた。父は大酒のみで家計は苦しく、彼女は母に繰糸を習い家計を助けた。その後、前橋の製糸家へ工女として住み込み、製糸業に対する知識を得た。一七歳で結婚したが、明治十二年(一八七九)、夫の乱暴に耐えかねて妻子ある男と郷里を捨てて逃げた。縁あって志ちは二川で製糸工場を始めたが、原料の繭(まゆ)不足により経営は困難をきわめ、転々と工場を移した。
苦労を重ねた後、明治十八年に大岩村に建てた新工場でようやく順調な成績をあげるようになった。彼女はこの新工場に、入籍にかかわる文書偽造の罪で投獄され、獄中で病死した内縁の夫徳次郎の名をとって糸徳工場と名づけた。
その後、玉繭(たままゆ)に着目した志ちは糸の取り出し方に心血を注ぎ、ついに成功するが、これは彼女の先見性・意志力の表れにほかならない。
明治三十五年(一九〇二)には玉糸を輸出し、やがて博覧会でも授賞、志ちは実業家としての地位を不動のものとした。三十七年、同業者とともに組織した菊水社は当時としては進歩的な経営であった。
明治三十九年、工場に修義団(しゅうぎだん)を設立し「愛なき人生は暗黒なり、汗なき社会は堕落(だらく)なり」の教えのもと、女工たちに、国のため糸をひく模範的働き手に自らなろうという志を持たせた。
第一次世界大戦の始まる大正三年(一九一四)、模範工場として県知事の視察を受け、新聞・雑誌に立志美談(りっしびだん)の主として登場、志ちは当時としてはまれな栄誉に輝く女性となる。たとえば「主婦の友」大正十四年一月号に次のように紹介されている。
「不遇と闘いながら
新運命を拓いた婦人の美談
女工から日本一の玉糸工場主となった婦人
血と涙に彩られた小淵志ちの立志美談」
志ちは八〇歳になり、足や腰が弱ってきても毎日工場を見回ったという。昭和四年、八二歳で没した。
小淵志ち