豊橋筆と佐野重作

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 豊橋市の毛筆製造業は、幕末から明治初期にかけて旧吉田藩士の芳賀次郎吉(はがじろきち)と弟子の佐野重作(じゅうさく)によって基礎が築かれた。
 当時の毛筆製造業ははなはだ低調で、一部の人々が細々と筆づくりに従事していたに過ぎなかった。重作は、研究心が旺盛で負けず嫌いであったため、筆づくりにも熱心に取り組み、長さ、かたさの異なる毛をまぜあわせる「練(ね)りまぜ」という技法に改良を加えた。
 一四年間の修行を終えた重作は、明治十一年(一八七八)に神明町で開業し従来の製法に改良を加えた独特の毛筆を製造し、売り出した。

豊橋筆

 当時、関屋の百花園に住んでいた画家、渡辺小華(しょうか)にも愛され、その真価が認められ始めた。需要がのび、重作も弟子をとる必要に迫られるが、この時、最初に弟子入りしたのが弟の佐野権作(ごんさく)、三井鉄太郎(てつたろう)、米津市太郎(よねづいちたろう)らであった。後年、豊橋毛筆界の発展に尽くした人々である。
 その後、弟子が二〇人にも達するころになると筆の生産過剰が始まり、重作は販路に苦しんだ。こうした時、彼は奈良の墨屋の助言をもとに過剰になった筆を東京方面に売り出すことにした。これをきっかけに、豊橋の毛筆の販路も少しずつ広がっていった。その後明治二十一年(一八八八)の豊橋駅完成も幸いして各地方との取引も盛んとなり、良質安価な豊橋の筆は全国的にも認められるようになった。さらに、明治三十三年(一九〇〇)、小学校令の改正で習字が国語科に加えられたことにより、毛筆の需要に拍車がかかった。
 明治三十五年に製造業者は相互の親睦・技術・製品の向上をめざし、初めて豊橋毛筆製造組合を創立した。組合では、検査員を巡回させて品質の向上をはかったほか、毎年視察員を全国に派遣して各地の実情を調査・研究させたり、製品を持ち帰らせて報告会・講習会を開いたりした。
 なお、豊橋市の毛筆製造業は家内手工業の形態をとっていたが、組合を通して原材料を共同購入したり原料共同倉庫を持っていたりした点で従来の問屋制家内工業とは異なっていた。
 組合員一五〇人余を数えた業界の隆盛の中で、明治四十四年(一九一一)、重作は、六〇歳でこの世を去った。佐野重作の豊橋毛筆業界に尽くした偉大な功績をたたえ、市内の龍拈寺(りゅうねんじ)の境内に記念碑が建立された。
 県内における豊橋毛筆の生産額の割合は、大正中期までは四〇%にも満たなかったが、それ以降は五〇%から七〇%を占めており、この時代の豊橋市の代表的な産業であった。しかし、零細経営のため一人当たりの利益は極めて低かった。
豊橋筆の職工数と生産高
年次製造
戸数
職工数生産量生産額
明治40年83158281862,809,00031,350
41年9692401321,380,00027,600
42年9393401331,325,00026,500
43年100200402401,500,00030,000
44年104202482501,500,50032,500
45年100193442371,437,20030,900
「愛知県統計書」より

 
豊橋筆の作り方
 筆の生産工程は全部で三六工程からなり、それがすべて手づくりである。まず、筆の穂首に使用される原毛を選別するところから始まるわけであるが、その原毛は山羊・馬・鹿・タヌキ・イタチなど九種類ほどの獣毛で、化学繊維は墨つきが悪いため使っていない。これらの毛は、戦前までは奥三河、静岡方面で供給されていたが、現在ではほとんど中国から輸入されている。
 動物の毛は身体の部分によって毛の性質が違うため一匹の動物から得られる毛はごくわずかで、職人の目と手だけで選り分けられている。毛の選別があるていど選り分けることができるまでに、五年から六年かかるといわれている。
 こうして、その中に職人の技と心が注ぎ込まれて、やっと一本の筆が生まれるわけである。豊橋筆の技術水準の高さ、高級品のイメージはけっして簡単につくられるものではない。現在は通産省より伝統工芸品の指定を受け、高級筆の座を不動にしている。