洋風帽子の材料麻真田製造

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 豊橋市において初めて麻真田(あささなだ)製造業を開始したのは吉浜(よしはま)勇次郎であった。明治三十八年(一九〇五)、彼は知人をたよって豊橋に移住、吉屋町(新吉町)に店を構えて輸出品リンネルハンカチの糸抜き業を始めた。その後、横浜と豊橋を行き来するうちに婦人帽の材料になる麻真田製造の将来性に着目し、横浜から仕入れた原料で製造を開始した。
 もともと、明治初期の豊橋は麻および麻糸の集散地であり、麻問屋があった。また、麦稈(ばっかん)真田の製造も盛んにおこなわれ、それにたずさわった婦人労働力を有効に利用することもできた。吉浜勇次郎はこうした立地条件の良さを活かしながら、付加価値の高い輸出用麻真田の製造を進展させたという。
 麻真田製造業は、明治末期から大正初期にかけてはその成長もゆるやかであった。その後、編織機が手動式から電動式に改良されて能率が上がり、品質も改善されると業者も急増した。数年にして製糸業に次ぐ豊橋の主要産業へと急成長を遂げ、第一次世界大戦後にその最盛期を迎えるに至った。主な製品は、夏向婦人帽の原料、手堤篭(てさげかご)、室内装飾品であり、アメリカ・イギリス・ドイツなどに輸出された。

麻真田工場

 輸出が中心であったため、麻真田業は諸外国の経済情勢に影響を受けやすく不安定であった。そこで、その対策も含め、大正十四年(一九二五)に豊橋輸出麻真田工業組合を設立した。
 この工業組合は、県下では最初、全国でも二番めの設立であった。初代組合長には吉浜勇次郎が就任し、組合に加盟する業者は豊橋・渥美・宝飯をはじめ、愛知県全体に広がっていった。組合の主な事業は、各種原料の共同購入や製品の共同販売によって品質改善・規格統一をはかり、生産および価格の調節をすることであった。
 第一次大戦後の戦後恐慌とそれに続く不景気の繰り返しにより、麻真田の輸出も生産額も少しずつ減少し、昭和恐慌では極度の不振におちいった。価格も昭和五年(一九三〇)には麻真田一反あたり二七銭、さらに七年には一四銭にまで暴落した。
 組合員数も減り始め、昭和六年には創立当時の約半数にまで減少した。工業組合では生産調整のため数回にわたって休業措置をとったが、労使双方の対立も深刻であった。七年以降には県内における製造業者は豊橋市のみとなり、八年から九年にかけて低賃金・低為替を武器に再び輸出・生産を回復した。八年の統計では、六四五〇万反、一五〇万円の生産をあげ、豊橋は神奈川・新潟両県をおさえて第一位となり、生産高において全国の四〇%を超えた。九年度も生産高は順調にのび六五五〇万反、一八三万円余となった。
 しかし、昭和十年(一九三五)には需要の減少と原料のマニラ麻暴騰が重なり、生産高は急激に減少した。翌年にはやや回復したが、日中戦争開始によってマニラ麻の輸入が制限され、さらに太平洋戦争突入後は原料輸入・製品輸出が停止された。その後、十七年までは何とか業者は苦境を生き抜いてきたが、やがて統制の厳しさから転廃業者があい次いだ。
 同年十月、ついに組合は解散に追い込まれ、その役割を終えた。