三河海苔と杢野甚七

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 杢野甚七(もくのじんしち)は、文化十一年(一八一四)前芝に生まれた。三九歳のとき、蛤(はまぐり)を囲うために張り巡らせたよしずや竹に海苔が付いているのを発見し、豊川河口一帯でも海苔(のり)が養殖できるのではないかと考えた。彼は浅草や広島など先進地の情報を仕入れたり、舞阪に出かけて養殖の方法を調べたりしたうえ、三河でも養殖できるという確信を得た。安政四年(一八五七)、暴風に妨げられはしたが海苔養殖に成功し、翌年、藩主信古に一五〇枚の乾海苔を献上した。豊川右岸、西浜漁場の始まりである。
 明治の中ごろになると、牟呂の芳賀保治(はがやすじ)が豊川左岸でも海苔が付いているのを発見し、神野新田五号堤沖や吉前新田沖など、豊川左岸の六条潟(ろくじょうがた)一帯にも海苔養殖が広まった。
 六条潟の生産が軌道にのった明治三十三年(一九〇〇)には、豊川河口一帯での従事者は約一五〇〇人、生産額は五万五〇〇〇円以上に達した。その後明治四十五年には、前芝・牟呂付近の海苔生産者と販売業者は、販路の拡大と品質向上をはかるため三河海苔同業組合を結成し、「三河海苔」の名称を広めていった。
 三河海苔は大正年間から昭和初期にかけてさらに発展し、六条潟を中心とする東三河は、東京・広島と並ぶ日本の三大生産地といわれるようになった。
 愛知県下の海苔生産高は、昭和十年(一九三五)には約一億四〇〇〇万枚、一四二万円であった。このうち豊橋市内では牟呂海苔組合が約一九〇〇万枚、津田・吉田方・大崎の各組合を合わせると約二三三〇枚で、県下生産量の一六%を占めた。さらに宝飯郡・渥美郡を合わせると、東三河地区での生産量は四八%に及び、生産者は三一〇〇人もの多数にのぼった。

海苔の摘み取り