明治の中ごろになると、牟呂の芳賀保治(はがやすじ)が豊川左岸でも海苔が付いているのを発見し、神野新田五号堤沖や吉前新田沖など、豊川左岸の六条潟(ろくじょうがた)一帯にも海苔養殖が広まった。
六条潟の生産が軌道にのった明治三十三年(一九〇〇)には、豊川河口一帯での従事者は約一五〇〇人、生産額は五万五〇〇〇円以上に達した。その後明治四十五年には、前芝・牟呂付近の海苔生産者と販売業者は、販路の拡大と品質向上をはかるため三河海苔同業組合を結成し、「三河海苔」の名称を広めていった。
三河海苔は大正年間から昭和初期にかけてさらに発展し、六条潟を中心とする東三河は、東京・広島と並ぶ日本の三大生産地といわれるようになった。
愛知県下の海苔生産高は、昭和十年(一九三五)には約一億四〇〇〇万枚、一四二万円であった。このうち豊橋市内では牟呂海苔組合が約一九〇〇万枚、津田・吉田方・大崎の各組合を合わせると約二三三〇枚で、県下生産量の一六%を占めた。さらに宝飯郡・渥美郡を合わせると、東三河地区での生産量は四八%に及び、生産者は三一〇〇人もの多数にのぼった。
海苔の摘み取り