事件は、明治四十五年(一九一二)二月に着工された飯村溜池工事に不正があったということで、工事請負人の収賄(しゅうわい)容疑による逮捕に始まった。当時の市長は、初代市長大口喜六の後を継いだ同じ同志派の高橋小十郎(こじゅうろう)であったため、市会の勢力を二分する実業派からの攻撃を盛んに受けた。実業派の機関紙を自認する新朝報も連日にわたってこの事件を取り上げたので、市民の間にも真相究明を求める声が高まった。しかし、市長は不正の事実はないと突っぱね、与党の同志派も多数勢力をたのんで本格的な調査をはばみ、真相究明の道を閉ざしてしまった。
市側のこうした対応は、市民の疑惑をますます深めさせた。大正元年(一九一二)九月三日、同志派系の参陽新報を除く五社の地元新聞の記者団が立ち上がった。完成一か月後の工事現場の調査をおこない、設計書と合致しない箇所や、大きく亀裂(きれつ)している箇所を発見した。この調査の結果を伝えたところ、市長は今後実地調査をすると答えるだけでいっこうに腰をあげようとしなかった。
同年十月二日、記者団は東雲座(しののめざ)で約二〇〇〇人を集めて市民大会を開き、市の責任を追及する決議文を採択した。この大会によって市民の市政全般にわたる関心を高めはしたが、結局、真相をただす決め手は見つからなかった。
新朝報 大正元.9.1 豊橋市中央図書館蔵
こうした情勢のなか、十月十日に市会の改選があり、選挙結果は同志派一三議席(三議席減)、実業派一三議席(五議席増)の同数となり、残り四議席を中立派が占めることになった。同志派の議席減は飯村溜池事件の影響によるもので、高橋市長にとって手痛い打撃になった。実業派は、改選後の十二月市会で飯村溜池工事に関する特別調査委員会の設置を動議し、高橋市長にはじめて工事に不正のあったことを認めさせた。しかし、このあたりから事件そのものより、実業派対同志派の攻防に移った。実業派にとって、市制施行以来、同志派に独占され続けていた市長の座を奪い取る絶好のチャンスであった。中立派の一部と連携し、秘かに準備を進めていった。
大正二年三月、高橋市長は辞任したが、不正事件の後ということで同志派は市長候補を出しにくく、実業派は榊原弁吾(さかきばらべんご)を市長候補とした。しかし、同志派の反対により市長の空席が長びき、行政の停滞が市民生活に影響を与えるまでになった。そこで、同志派の総師大口喜六(おおぐちきろく)は実業派と中立派との間に立って調整をはかり、市会に市長候補案を上程した。
この案に基づいて市長候補をしぼり、市会で推薦(すいせん)決定の投票をおこなった結果、わずかな差で榊原弁吾に決定した。彼の就任により大正二年八月、市制施行以来、初の実業派市長が誕生した。しかし、同志派の存在と莫大な市の財政赤字を思えば喜んでばかりはいられなかった。この後、実業派議員が三人も死去したため、多数派になった野党同志派の攻勢を受けることになった。翌三年二月、新年度予算案を含めすべての議事が終了した後、激しい政争の中で榊原弁吾は市長の座を去った。
豊橋市役所
高橋市長約一年、榊原市長七か月と、あい次ぐ市長の交代は愛知県知事から事情聴取を受けることになった。しかも、市長不在により、市長事務をとりおこなう市長事務管掌を県から派遣される始末であった。
こうした異常事態を打開するために、同志派・実業派の妥協も進行し、再び大口喜六が第四代市長に迎えられた。大口市長は市政を進めるにあたり、実業派からは助役を、同志派からは市会議長を選ぶなど、両派の均衡をはかりながら前任時代に決めた事業の完成に意を注いだ。