明治三十三年(一九〇〇)ころよりほぼ安定していた米価(一升二〇銭以下)も大正五年ごろから上がりはじめ、大正七年八月には二倍以上の五〇銭にもなった。こうした背景には、好景気によって急激に発達した近代産業と、近代化に取り残された農業との間に生じた社会的歪みがあった。農村から都市への人口集中は、都市の米消費を増加させた反面、農村労働力の不足が米の収穫量を減少させるという事態こした。これに地主や米商人の米の投機や売り惜しみなどが重なりあい、米の暴騰を招くことになったのである。
大正七年(一九一八)七月二十二日、富山県魚津村の主婦たちが県外へ移出する米の積み込みに反対して港へ押しかけた。八月三日には、主婦の行動は同県水橋町へ飛び火し、米屋に米の安売りを嘆願した。この動きはたちまち富山県内に広がり、さらに、八月十日には京都・名古屋、十一日には大阪へと移っていった。この段階になると値下げの強要、打ちこわしへとエスカレートしていた。この一連の騒動が米騒動である。
豊橋でも、同年八月十二日夜の八時半ごろ、大手通り、新停車場通り(萱町)で、数人の男たちが米価暴騰について大道演説(だいどうえんぜつ)を始めた。この演説にあおられた数百人の群衆は、松葉町の豊橋米穀(べいこく)取引所理事の中林登平商店を襲撃し、在庫米の全部を一升二二銭で売る約束をさせて引きあげた。
米騒動当時の萱町通り
その後、群集は狭間(はざま)町の精米所、大手通りや魚町の米屋に押しかけ、二四銭で安売りの約束をさせた。群集はしだいにふくれあがり、その数も三〇〇〇人を越すほどになった。それから群集は二手に分かれ、東田遊郭方面と下地方面へと向かった。この日の騒動が終わったのは十三日の未明、午前三時を過ぎてからであった。このように大きな騒動になったのは、警官が名古屋の米騒動鎮圧の応援に出かけ、市内の警備が手薄であったことも影響している。
翌八月十三日、市は緊急市会を開き、米穀商側と交渉して内地米を一升四七銭で売ることを決定した。しかし、この決定は前日の一升二〇銭から二五銭で売るという約束とは大きく食い違うことになったため、その日の夜、高師方面から来た数人の男たちが大手通りの群集と合流し、新停車場通りの米屋を襲って主人の頭に怪我をさせた。駆けつけた警察官と憲兵(けんぺい)により一人の男が逮捕されたが、今度はその男の引き渡しを求めて騒ぎが広がった。逮捕者が本署に連行されたことを知った群集は、花田町西宿方面と豊橋警察署と二手に分かれて進んだ。西宿方面に向かった群集は、前夜の米屋を襲い、米穀取引所に迫った。野次馬も混じった群集は二万人にもふくれ上がり、大挙して取引所に侵入しようとした。
一方、豊橋警察署に向かった群集は、前日からの逮捕者の引き渡しを迫ったが拒否されたため、ガラス窓をすべて破壊した。しかし、歩兵第十八聯隊、騎兵(きへい)第二十五聯隊(れんたい)が出動したため、二手に分かれて暴れた群集もしだいに勢いを失った。この日の騒動が鎮静化したのは十四日午前二時過ぎであった。
十四日も市内には不穏な動きもあったが、軍隊や警察官が警戒にあたったため騒動は起きなかった。
十五日、細谷忠男市長は市会議員を招集して協議会を開き、市内の五か所で米一升二四銭で安売りすることとした。この結果、逮捕者五三人を出して豊橋の米騒動はおさまったが、その後も米価は一升四〇銭台の高いままだったので、市民の生活苦は持ち越されたままとなった。賃金と米価のバランスが取れるようになるのは大正九年ごろのことである。
逮捕者五三人を出した豊橋の米騒動は、全国の動きが波及した一過性のものであった。しかし、わずか二日間の騒動であったとはいえ、民衆の行動エネルギーの大きさを見せつけている。この衝撃が労働運動激化の引き金となり、社会主義運動らしきものの芽ばえにも結びついていった。
市民生活を脅かす物価高
米を中心とした諸物価の高騰は、賃金上昇率を上回り、市民生活を非常に苦しいものとした。大正五年以降、物価平均指数は賃金指数を上まわり、市民の生活は物価高の圧迫の中で営まれることとなった。生活苦は、日雇い労働者はもとより、公務員、教師、巡査、会社員などの中産階層にまで及んだ。
当時、豊橋地方の労働者の一か月の賃金は、専科正教員の二四円、洋服仕立職裁断師(したてしょくさいだんし)の一〇〇円前後という範囲内にあった。五人家族の場合、米代だけで月に二二円から二五円もかかり、耐え切れるものではなかった。
米価がこのまま高騰すれば、いずれ爆発することは予想されることであった。
米価・物価・賃金指数の推移 「豊橋市史第四巻」より