第一次電価争議

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 大正九年(一九二〇)三月十五日、株価の暴落によって東京と大阪の株式取引所は二日間休業した。これが第一次世界大戦中の好景気の反動として起こった戦後恐慌(きょうこう)の始まりであり、しだいに不景気は深刻化していった。
 米騒動を体験した市民は、政治への関心を高め、身近な地域の問題についても積極的な態度を示すようになった。大正九年から十年にかけての第一次電価争議は、電気市営問題をきっかけにして始まり、電気料金の値下げ運動へと発展していったが、こうした市民のめざめの表れである。
 大正九年十二月、戦後恐慌によって経営不振におちいった豊橋電気株式会社(豊電)は、名古屋電燈(でんとう)株式会社(名電)との合併を決め、仮(かり)契約書に調印した。当時、豊電の取締役は市会議長であった同志派の大口喜六であり、実業派はこれを好機ととらえ合併反対に立ち上がった。その理由は、名電の条件で市が豊電を買収すれば、約二五%の電気料金の値下げが可能であり、市民の利益になるというものであった。
 細谷市長は対策協議の結果、市として豊電を買収するため、会社内容を調査させることとした。市会議員協議会は、大正九年十二月に同志派も含め満場一致で電気市営案を通過させ、市長は名電と同一価格で買い取ることを申し入れた。ところが数日後、豊電は臨時株主総会で名電との合併仮契約を承認してしまった。翌十年二月、市長は豊電に改めて買収を申し入れたが、会社側は名電との合併後の買収を主張したため不成立に終わった。
 大正十年四月、合併の認可が中央の監督官庁からおり、旧豊電は名電の豊橋営業所となった。電気市営問題は買収前の価格を名電が取りあわなかったので交渉は進展しなかった。同年七月、態度を硬化した市会は合併不承認を満場一致で決議した。電気市営問題に対する市民の関心はしだいに高まっていたが、市会の決議をきっかけに名電非難の声となって急速に広まっていった。豊橋の新聞記者団も、市の方針を支援する声明を出して立ち上がった。同年八月、市内各新聞社連盟の主催により、三〇〇〇人の聴衆を集めて電気問題市民大会が開催された。立場が複雑になった同志派議員は一人も出席しなかったが、この大会は電気市営問題を電気料金値下げ運動へと方向を変える転機となった。大会は電気料金の値下げ要求、および電価値下期成同盟会の結成を満場一致で議決し、名電に対する運動方針を確定した。第一次電価争議の本格的開始である。
 当時、豊橋の電気料金は他都市と比べ高かった。不景気のなかで生活苦を味わっていた市民や中小企業者は、電気料金の値下げを希望していたのでたちまち全市民の運動へと発展していった。しかし、会社側が値下げ要求を受け入れようとしなかったため、期成同盟会は名電本社に押しかけようとした。不測(ふそく)の事態の発生を心配した愛知県知事から調停の委嘱(いしょく)を受けた宝飯郡長と豊橋警察署長の仲介により、大正十年(一九二一)十月、豊橋市役所で交渉が持たれた。
 その結果、電気料金の値下げ、電球の無料交換、公会堂一〇〇坪(三三〇平方メートル)二階建て一棟の寄付などを約束させた。同年十一月、同盟会は東雲座で報告演説会を開いて高らかに勝利宣言をし、運動を締めくくった。すでに大口喜六は市会議長を辞任していたが、同志・実業両派の対立はなお尾を引くことになる。
各都市の電灯料金
燭光数豊橋岡崎浜松静岡岐阜
5燭65銭45銭45銭53銭60銭
10燭7560616575
16燭9075757590
24燭110959090110
32燭130110110120140
50燭200155150180200
豊橋日日新聞 大正10.8.4より