労働運動の高まり

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 米騒動の後、日本全国で持ちあがった革新運動と歩調を合わせ、豊橋にもその動きがめばえた。
 いち早く動き出したのは、大正十一年(一九二二)に河合陸郎(ろくろう)らが結成した黒墓土(くろぽと)社であるが、このグループは文芸団体的な性格を帯び、その無政府主義的革命思想は、大衆の中に勢力を伸ばすことができなかった。
 やがて革新運動は、政治活動を重視するボルシェビズム(レーニン主義)が主導権をにぎり、労働組合に勢力を伸ばしていった。大正十四年十一月、この流れをくむ政治研究会豊橋支部がつくられた。この政治研究会は、豊橋における労働組合運動の先がけであり、将来、一般労働組合と労働農民党支部結成の母体ともなるものであった。
 彼らは労働組合の結成をめざし、中部地方評議会の指導下に組合員の獲得を始めた。重点工場とされた前田南町の曲仙製糸工場では、労働条件に対する不平不満があったため、政治研究会の考え方に共鳴する者が男二〇人、女二五一人と多かった。大正十五年四月、浜松市の日本楽器で一〇五日間の大争議が起きた際、その応援に向かう途中の中部評議会のメンバーが豊橋で途中下車し、曲仙製糸工場の争議計画を進めた。
 同年五月、低賃金と粗悪な食事、そして規制の厳重さで工場内の不満がつのったのをみて、争議の条件が整ったと判断した政治研究会はストライキを打つことを決めた。しかし、直前に発覚し、思想を取り締まる特別高等警察に主要メンバーが逮捕されたため、ストライキはもとより、労働組合結成の計画すら潰されてしまった。
 それでも、同年七月には豊岡ゴム会社が事業不振から工場を閉鎖したため、技師徳野孝太郎(こうたろう)らは、政治研究会の指導を得て労働組合を組織した。結成式では三四条にわたる規約を可決した後、宣言・綱領(こうりょう)を承認した。執行委員長には徳野が就任、政治研究会のメンバーが組合幹部となった。こうして、豊橋最初の労働組合が誕生した。
 これより先、中央の政治研究会は大正十五年三月、合法政党の樹立をはかり労働農民党を結成した。豊橋支部もこれに呼応し、昭和二年(一九二七)九月、豊橋最初の左翼無産政党である労働農民党東三支部が発足した。その直後の五月末、豊橋初の労働争議が北島町佐久間(さくま)製糸に起きた。組合を組織するため、一部工員が調印取りまとめ中のところを発見した会社側は、首謀者と考えられた三人の工員に解雇を申し渡した。これに対し、男女工三八人が嘆願書を提出するとともに、待遇改善の交渉をくり返した。その結果、会社側は自由外出の一項を除いて要求を全面的に受け入れ、争議はおさまった。

参陽新報 昭和2.5.21 豊橋市中央図書館蔵

 労働運動は少しずつ軌道に乗り始め進展するかに見えたが、政府は大正十四年(一九二五)に制定した治安維持法を武器にこの運動を弾圧した。昭和三年(一九二八)三月十五日、共産主義運動撲滅(ぼくめつ)をねらう大検挙、いわゆる三・一五事件が起きた。労働組合と労農党支部の幹部の検挙に続き、四月に入って労働農民党は結社を禁止され、下部組織である東三支部も解散に追い込まれた。
 その後、合法的な新党を結成して市会議員選挙に臨もうという動きもあったが、警察の弾圧により選挙運動に打撃を受け惨敗してしまった。こうして、豊橋地方に芽ばえかけた革新勢力は、昭和四年の暮れごろにはしだいに勢いを失っていった。