普通選挙法の実施

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 大正十三年(一九二四)五月の総選挙で憲政会・政友会・革新倶楽部(クラブ)の護憲三派が勝利をおさめ、加藤高明(たかあき)を首班とする三派連立内閣が成立した。加藤内閣は、二五歳以上の男子すべてに選挙権を与える普通選挙法を成立させた。
 このころ、豊橋の政界も大きな変動期を迎えた。豊橋の政界に大きな影響力を持っていた大口喜六は同志派の総帥であり、犬養毅(いぬかいつよし)の革新倶楽部に属していた。一方、鈴木五六(ごろく)は県会議長も務めたことのある実業派の総帥で、政友会系として知られていた。大正十四年五月、小政党の革新倶楽部は党勢を維持できず政友会と合同したため、大口喜六も政友会に党籍(とうせき)を移した。このため、同志・実業派とも政友会に結びつくことになった。中央政界の変動が、豊橋政界を政友会系一色に塗りつぶす事態を招いたのである。
 ところが、中央政界の揺れは収まらず、昭和二年(一九二七)、憲政会は政友会から分裂した政友本党を合併し、民政党と名前を改めた。この動きを受けて、豊橋でも政友会系の勢力に対抗するため、民政党系勢力を結集して東三民政党倶楽部(更新会(こうしんかい))が結成された。高橋小十郎が幹事長となり、これまで同志派対実業派のなかで中立を維持していた人たちを加えた。したがって、豊橋政界の勢力分野は同志・実業派対更新会と新しく塗りかえられた。
 昭和二年九月、普通選挙による第一回県会議員選挙がおこなわれ、政友会候補鈴木五六、小山信が当選し更新会の候補は落選した。翌三年二月、第一回総選挙が実施された。愛知五区は、政友会の大口喜六が第一位当選、第二位当選も政友会の鈴木五六であり、民政党の杉浦武雄(たけお)は第三位当選に甘んじた。
 このように、新たな色分けの豊橋政界は、依然として同志派・実業派が主流を占めていた。昭和三年十月の市会議員選挙でも、同志派・実業派がそれぞれ一四人ずつ計二八人の絶対多数を取り、更新会(民政党系)は、わずか六人を得たに過ぎなかった。
 なお、革新勢力もこの時の市会議員選挙に候補者を立てたが、前項で述べたように警察の弾圧を受けて惨敗した。普通選挙法の実施による有権者数の拡大はあったものの、革新思想を市政に反映するまでには至らなかったのである。
 
小作人組合の結成
 米騒動は庶民に組織化の必要性を教え、それが労働運動に点火し、労働争議が各地で生ずることになった。農村においても、農民運動の形で表われて小作争議が広がり、小作層を中心とした小作人組合が組織化された。大正十年の小作争議件数は、全国で一六〇〇件を越え労働争議の規模を上回るまでになった。
 大正十一年のピーク時に小作争議は三河にも広がったが、豊橋ではほとんど見られなかった。豊橋の場合ピーク時以前に多米・金田で土地問題をめぐる係争処理の目的で設置され、小作人側に意識の高まりが見られた。これに対して、ピーク時以降に結成された牟呂や大村では倫理的結束が強調された。牟呂では、「道徳心を尊重し」「地主との親睦」などがうたわれており、結成時期による対照性が見られる。
 いずれにしても、豊橋では工業化が望まれていた状況で、労働争議自体が少なかったことや大地主が少なかったことなどの条件から、小作争議の発生がほとんどなかったといえる。