初等教育の高まり

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 大正五年(一九一六)、吉野作造(さくぞう)は「民本主義」を唱え、普通選挙と政党中心の議会政治を主張した。第一次世界大戦後は、新聞や雑誌を通して民主主義を主張する人々が多くなり、普通選挙運動が盛んになった。いわゆる大正デモクラシーの展開であるが、教育の面でも、欧米のペスタロッチ、デューイなどの教育思想の影響を受けながら、新教育運動が起こってきた。
 新教育運動は、子どもの個性や自発性を尊重しようという児童中心主義の思想に基づいており、これまでの画一的な教育や、詰め込み主義、暗記主義、形式主義への批判を含んでいた。
 こうした潮流のなかで、大正六年、政府は新しい時代の動きに対応する教育政策を立てるため、臨時教育会議を設置した。会議の答申に基づき、高等小学校の実務教育を充実し、義務教育を終了した児童の多くが進学できる態勢を整えた。この結果、進学する児童はしだいに増加し、大正八年の愛知県下の高等小学校への進学率は五〇%を越えるようになった。このほか答申には、教育内容の改革、国民道徳教育の徹底、体育の重視教員資質(ししつ)の向上などが盛り込まれていた。
 大正七年、修身・国語・算術・地理・理科など小学校用国定教科書が修正された。この時から国語の教科書は、修正された従来の黒表紙(くろびょうし)と新しく編集された白表紙の二種類となった。「ハナ ハト マメ マス」で始まる白表紙読本は、国家思想の統一を強調する内容を強化した反面、児童の興味・関心をひく童話をはじめ文学的要素の多い教材や、諸外国をテーマに世界性を持たせた教材を多く取り入れていた。新教育思想を反映したこの白表紙読本は、全国小学校の三分の二以上が採用するなど好評であった。

大正期の国定教科書 豊橋市中央図書館蔵

 教育政策の見なおしや新教育運動が展開されるなかで、教師の取り組みも真剣味を帯びていた。豊橋市の小学校でも、新しい教育思想や教育方法を先進地の講演会や研究発表会で学んだり、中央の研究家や実践者を招いて新しい理論や実践を導入することに努めた。また、校内研究会も盛んに開かれ、個性観察に関するもの、授業の際の質問の出し方に関するもの、綴(つづ)り方教育やグループ学習郷土教育の重視など多方面にわたって研究がおこなわれた。
 当時、豊橋市の小学校は、明治末に二校増設されて九校であった。大正初期、就学率はすでに九七%を越えていたのが大正末期には九九%と、義務教育の定着は、ほぼ完全に近い水準に達した。
豊橋市の小学校 大正15年 1926
小学校名学級数教員数児童数
豊橋高等小学校2225人1,211人
岩田尋常高等小学校1215578
東田尋常小学校1214724
八町尋常小学校24261,317
松葉尋常小学校24261,402
花田尋常小学校19211,216
狭間尋常小学校23241,231
松山尋常小学校18201,072
新川尋常小学校25271,628
合計17919810,379
「豊橋市市制施行二十年誌」より


大正期の八町尋常小学校校庭

 児童の学校生活は豊橋市内のどこの学校でも大差はなかったようで、四月から九月の夏期は午前八時始業の午後二時終業、十月から三月の冬期は八時三十分始業の二時三十分終業が一般的であった。登校すると毎朝校庭で全校朝礼があり、級長の号令で整列した後、教育勅語(ちょくご)の奉読(ほうどく)、校長の訓話があった。朝礼が終わると教室で授業が始められた。授業科目は大正八年の小学校令に基づき、修身・国語・算術・日本歴史・地理・理科・図画・唱歌・体操・裁縫(さいほう)(女児)・手工などが学年に応じておこなわれた。教科書などの学習用具は風呂敷に包んでいたが、大正の中ごろから肩掛けのズック鞄(かばん)が使用されるようになった。服装は着物・はんてんだったが、大正の末には洋服を着てくる児童も現れた。
 家に帰ってからの遊びは、四季折々、男女それぞれ工夫をこらした児童手製の道具を使う昔ながらのものが多かった。