一隅同人
一隅会が発足した同じ年の春、俳句の一鷹(いちおう)会が生まれ、第四中学校の教師らが中心となって句会を開いた。一鷹会の由来は、芭蕉(ばしょう)の「鷹(たか)一つ見つけてうれし伊良湖岬」にちなんでいる。子規(しき)以来の俳句・短歌革新の道に根岸(ねぎし)派の俳人も参加し、豊橋俳壇の主流をなした。その後、昭和二年(一九二七)に高浜虚子(きょし)はじめ、ホトトギス派の俳人一五人が蒲郡に来た時、一鷹会会員一四人を交えて蒲郡市内の常盤館(ときわかん)で俳句大会を開いている。
一鷹会以後、ホトトギスの系統を継ぐものとして昭和六年(一九三一)九月に俳誌「うしほ」が、同八年には「とくさ句集」が刊行された。
詩の分野では、大正三年(一九一四)、大山牧村が「薔薇(ばら)と真珠」を刊行した。大正初期の詩壇は三木露風(みきろふう)・北原白秋(はくしゅう)らの象徴派(しょうちょうは)詩人が主流を占めていたが、牧村も北原白秋を崇拝し、「文章世界」の投稿の常連であった。翌年、彼は第一詩集「焦熱地(しょうねつち)」を刊行した。若者の官能的な恋愛をうたった詩集で、豊橋ではじめての詩集として注目される。大正十二年、詩誌「自画像(じがぞう)」が創刊されるころになると、詩壇のメンバーも多彩をきわめるようになった。
昭和に入って、七年に岩瀬正雄の処女詩集「悲劇」が発行された。その中の「生きる」について、河合陸郎(かわいろくろう)は、新朝報紙上で「すばらしい迫力を持ってゐる。私はかういふ詩も好きだ」と激賞した。
歌人たちの動きとしては、大正七年(一九一八)に短歌雑誌「海光」が創刊されたが三号で廃刊になった。その後、同十三年に豊橋短歌会が誕生し、機関誌「短歌」を刊行した。さらに翌十四年には、歌誌「うたの友」が創刊された。中途の休刊はあったものの、昭和三十五年(一九六〇)の廃刊まで通巻三八三号に及び、投稿者は全国にわたった。
明治・大正・昭和を通して、歌壇の主流をなしてきたのは斎藤茂吉(さいとうもきち)のアララギ派であった。豊橋でも昭和七年九月、三河アララギの創立句会が開かれた。同派は、歌誌の変遷はあったが今日まで脈々と活動を続けている。しかし、当時の豊橋地方では、昭和十年に創刊した歌誌「寂照(じゃくしょう)」における笹川露香(ささがわろこう)を中心とした活動がめざましかった。同誌には他派の人々も投稿し批評・論文・随筆(ずいひつ)など活発であった。
豊橋文学界の活動が本格化した昭和初期、政府は社会主義思想の広がりに対する警戒を一段と強めていた。昭和八年一月、政府は活動方針を強化した日本共産党および思想的なつながりを持つコップ(日本プロレタリヤ文化連盟)など左翼関係の大検挙をおこなった。豊橋署は、この時検挙したものと関係者を含めて八〇余人を取り調べ、調書は五〇〇〇枚を越えたという。
文化総合雑誌「文化都市」が創刊されたのは、大検挙から九か月後であった。コップの組織が壊滅し、表だった活動もできなくなった有志が、せめてものレジスタンスとして刊行したのである。「文化都市」は、昭和九年五月の第七号まで続いたが、弾圧が厳しくなり廃刊に追い込まれた。これにより、わずかに続いていた豊橋地方のプロレタリア文化運動も転機をむかえ左翼運動から手を引く作家も増えていった。
昭和九年二月、第一次豊橋文化協会が結成された。これまで、思想的に左翼にかたよりがちであった文化運動を全市民的なものへと広げ、文化的行事を活発化し、市民文化の向上をはかるのが目的であった。
結成後、美術・音楽・文学・宗教等の団体から加入申し込みが集まった。同年六月には、豊橋地方のあらゆる文化団体が加わり、豊橋市公会堂・豊橋商工会議所を会場として、文化オリンピアードを催した。その内容は、音楽会・洋画展・日本画展・映画会・郷土文化資料展・演劇・写真展・広告展等という多彩なものであった。
また、豊橋文化協会は各界第一級の執筆者をそろえ一般市民を対象とした文化雑誌「文化」を刊行し、文化運動を活発化させようとした。しかし、この啓蒙誌は、第八号を昭和十年(一九三五)十一月に出して、後は途絶えてしまった。
その後、日中戦争の進展にともない、文学活動も戦時色を濃くしていった。昭和十五年一月には、紀元二六〇〇年奉祝と大政翼賛の気運強調のため、三河・遠江の一三〇人の各派歌人を豊橋市立図書館に集めて奉祝短歌会が開かれた。