大正・昭和前期の美術・芸能

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 豊橋の日本画界は、大正期には明治期の豊橋画壇の中心勢力であった渡辺小華の門弟がまだまだ活躍していたが、次々と世を去っていった。小華一門は孫弟子の時代となり、地元から東西の大家に師事するものがしだいに多くなっていった。
 豊橋の日本画団体は、白井永川(えいせん)の豊橋南宗画会(なんしゅうがかい)が最初と推定される。本格的な日本画団体の発足は、大正十五年(一九二六)の豊橋洋画協会よりかなり遅れ、昭和八年(一九三三)に佐藤翠香・河辺天明が発起人になり、豊橋日本画協会としてようやく発足した。
 豊橋の洋画界は、明治二十九年(一八九六)に豊橋尋常中学時習館に赴任してきた東京美術学校洋画科出身の佐村三郎が草分けとされている。豊橋の洋画が活発化するのは、大正九年(一九二〇)に細島昇一(しょういち)、同十二年に島田卓二(たくじ)らが豊橋へ来てからのことであった。

島田卓二 「二川風景」 豊橋市美術博物館蔵

 昭和十年(一九三五)、豊橋洋画展・日本画協会作品展・写真展が市公会堂において同時開催したのを機会に豊橋美術協会として統合され、以後の美術活動を進めることになった。
 大正初期、豊橋の劇場は、演劇四座(弥生(やよい)座・東雲(しののめ)座・豊橋座・河原座)、演芸一座(寿座(ことぶきざ))に対し、映画館は一館だけであった。しかし、映画の人気が高まるにつれて演劇場の転業・廃業があい次ぎ、昭和八年(一九三三)には演劇二座・演芸一座に対して映画七館と大きく入れ変わった。
 映画に主役の座を奪われてしまったが、演劇・演芸が大衆文化に果たした役割は決して小さくはない。大正四年(一九一五)、豊橋演劇場を代表する東雲座は、前年に東京帝国劇場で初演され、爆発的人気を呼んだ芸術座(座長島村抱月)による新劇「復活」を上演した。同劇場は、他にも新派劇、プロレタリア演劇などを上演するなど地方演劇場のリード役をつとめた。また、寿座も落語・漫才・曲芸など大衆娯楽の場として存在を示していた。
 昭和十五年末、東雲座が豊橋東宝映画劇場と変わった。残るは演劇で豊橋劇場、演芸で蝶春座(寿座)だけとなったが、いずれも太平洋戦争末期、戦災で焼失あるいは廃業の運命をたどった。
 庶民の娯楽である大正期の映画(活動写真)は、無声映画の時代であり、初期は新派物・文芸物・時代劇などの作品が多く作られた。第一次世界大戦ころからアメリカ映画の輸入が多くなり、大正末期には外国映画が国内作をしのぐようになった。
 無声映画の時代の花形は、日本独特の活動弁士であり、声色でセリフをつけ、弁舌で泣かせ笑わせた。人気弁士は人気俳優なみで、彼らの発言は作品を左右するほどであった。昭和十年以後、映画はトーキー(発声映画)となり、楽士と弁士の失業を招いた。

映画の広告 新潮報 大正元.9.1