都市計画と道路の拡張

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 明治末期、初代市長の大口喜六の市政下で道路網の整備は着々と進められ、大正初期には豊橋の街の骨格はできあがっていた。しかし、第一次世界大戦がもたらした日本資本主義経済の発展と都市への人口集中は豊橋にも及んだ。大戦後の市人口は一万三〇〇〇人増の六万六〇〇〇人余となり、本格的な都市機能の整備が課題になった。そのためには、都市の発展に応じて都市区域を設定し、区画整理を都市独自の計画によって実施できる法整備が必要であった。
 大正八年(一九一九)、政府が都市計画法を制定したのを機に、豊橋市も十年に臨時都市計画準備委員会を設置して同法の適用を受けるべく政府に働きかけた。
 大正十二年、都市計画法の適用が認められると、市は同法の趣旨に対する市民の理解と協力を得るため、東雲座での講演会や新聞紙上への談話掲載などの啓蒙活動に努め、慎重に都市近代化への第一歩を踏み出した。施行上の根幹となる問題は新都市区域の決定であった。大正十四年、中央との折衝を繰り返した結果豊橋市をはじめ周辺の町村(下地町・牟呂吉田村・高師村の一部・二川町の一部・下川村の牛川)が豊橋の都市計画区域として決定された。
 都市計画事業には、商工業地区の設定、主要道路の開発と拡張、上下水道の整備、公園計画、運河網の整備と多方面にわたっていたが、これらの諸施策は、第一次世界大戦後の経済恐慌(きょうこう)、昭和初期の金融恐慌の影響をまともに受けて前途多難であった。
 諸施策中、市街路の拡張について、市は都市計画法に基づき道路受益者負担の規定を公示した。これは道路を新設・舗装(ほそう)により利益を受ける沿道地域の住民に費用の一部を負担させるものであった。この規定により道路の新設や舗装は進展した。
大正年間の豊橋市内主要道路
区分道路名延長幅員備考
国道
第一号線3,989平均3旧東海道
第三十号線7696余大手線、札木・呉服町~高師村
特四号線15内橋梁5間、国道三十号線東郷~高師村
県道豊橋本郷線5102別所街道、西新町~下川村牛川
田原豊橋停車場線3786新停車場線、神明町~豊橋停車場
豊橋停車場線3786余上伝馬町~豊橋停車場
豊橋牟呂港線7971半豊橋停車場線松葉~牟呂港
市道八町線1,9104半西八町西端~東田遊廓
魚町線409.04平均4国道大手線~松葉町~船町線
萱町線837.44国道上伝馬町~牟呂用水路~高師村
大山塚羽根井線696.44.5~2萱町線~牟呂吉田村
船町線4214国道船町~豊橋駅
関屋線2403~4国道札木線~関屋豊川河岸
花園中柴線7892.1余国道札木町~新銭町~高師村
八町中世古線6834~2八町線東八町十字路~向山工兵隊
向山工兵隊線3603萱町線中花田町東郷~向山工兵隊
飯村射撃場線4234東海道南飯村~陸軍射撃場
陸軍墓地東南線601.8~2陸軍省開盤、明治42年市道編入
飯村射撃場西南線4542同上
「豊橋市史第四巻」より

 昭和七年(一九三二)から第一期計画をたて、九年から八町通・牟呂線・花田線の工事が進み、十一年に完成した。さらに、第二期計画で駅前広場を含む幹線一五路線の改修に乗りだした。このほか、周辺町村の道路も整備されたので、八年には豊橋と二川の間に初めて省営バスが運転されるようになった。