大正九年(一九二〇)五月、豊橋電気の福沢桃介(ももすけ)ら一一人は、資本金五〇〇万円で豊橋水道株式会社の設立を企画した。この計画は三上村あたりの豊川を水源として多米の赤岩山頂に貯水池をつくり、豊橋市内と高師村方面へ給水しようというものであった。
この私設水道施設の申請は「水道の私設か公営か」の紛争に発展し、市会内部の同志派対実業派の対立を招いた。同志派は、公営の場合の財政負担の重さから私設水道敷設を支持した。一方、実業派は、電気だけでなく水道までが一企業の独占に結びつくとして私設水道に強く反対した。その後、同志派と実業派は歩み寄りをみせたが、豊橋電気の社内紛争がからんで私設水道計画は進展しなかった。
これに対して、大正十二年(一九二三)七月、都市計画法の適用認可がおりたのを契機に上水道公営論が急浮上し、市会は市営上水道の敷設を議決した。これにともない私設水道問題は立ち消えになった。
水源地は調査の結果、下川村西下条三ノ下地先(ちさき)を選定した。豊川低地の伏流水(ふくりゅうすい)が水量・水質ともに良好であるなどの好条件を備えていたからである。
総工費三〇〇万円余の上水道建設は、一人当たり一日平均一一一・二リットルとして人口一六万まで給水能力を持つ本格的なものであった。豊橋市始まって以来の大事業であり、経済不況下の失業救済事業でもあった。鉄管を除いて、その他の諸材料はすべて市内業者よりの購入であったから、市民経済の活性化にも結びつくと多くの期待が寄せられた。
延べ人員一〇万人を投入した工事は予定どおり進展し、昭和四年(一九二九)三月二十日に通水した。当日の放水試験では駅前・八町公園・練兵場(れんぺいじょう)で消火栓が抜かれ、水道の威力が初めて豊橋市民に公開された。
昭和五年三月二十九日、岩崎と飯村(いむれ)を除く全市域と宝飯郡下地町への給水を開始した。しかし、初年度の申し込み戸数は、給水全区域の一万八三一二戸のうち三四四二戸で、目標の五〇〇〇戸にも達しなかった。経済不況下の豊橋市民にとって、給水条例に示された水道料金三か月分の前払いは市民の家計を圧迫したのである。このため、豊橋市の給水率は昭和十四年(一九三九)に至っても五割を越えることがなかった。
豊橋市の給水戸数 |
年次 | 給水区内戸数 | 給水戸数 | 給水率 |
戸 | 戸 | % | |
昭和4年 | 18,312 | 3,442 | 18.8 |
5年 | 18,565 | 5,036 | 27.1 |
6年 | 18,951 | 5,670 | 29.9 |
7年 | 19,462 | 6,361 | 32.7 |
8年 | 21,253 | 6,840 | 32.2 |
9年 | 19,861 | 7,728 | 38.9 |
10年 | 20,300 | 8,194 | 40.4 |
11年 | 20,486 | 8,594 | 42.0 |
12年 | 20,614 | 9,231 | 44.8 |
13年 | 20,822 | 9,727 | 46.7 |
14年 | 20,920 | 9,209 | 44.0 |
「豊橋市史第四巻」より |
一方、下水道は上水道優先の考え方が強く、整備計画は遅れていた。当時の雨水や汚水の処理は道路側溝に流すだけで、後は地下にしみ込むか蒸発を待つだけという状況であった。大雨が降れば汚水をともなった雨水が路上にあふれ、低地では床下浸水する家屋もかなりあった。こうした非衛生的環境により、大正十年前後の豊橋の伝染病死亡率は、一万人当たり一〇人~一六人と他都市に比べて高かった。
大正十三年(一九二四)、とくに汚水の停滞のひどい花田地区に下水管を埋設して柳生川に流した。また、市中心部では古くからあった暗渠(あんきょ)を改修して、関屋町を経て豊川に放流した。しかし、いずれもこれらの工事は部分的な排水路を設けるだけで本格的な下水工事とはいえなかった。
花田町地内のぬかるみ
下水道計画が本格化したのは、上水道敷設の見通しがついた昭和三年であり、六年六月の市会で承認の後、失業救済事業として出発した。
満州事変が始まると、諸材料の高騰を予想した市は七か年計画を五か年に変更し、一期・二期計三七一万円余の支出計画を立てて完成を急いだ。下水管の総延長一一万三七三二メートル、工事はすべて市の直営で進められた。雨水の排除は北部に四か所、南部に三か所の放流口をつくり、低地の船町・北島の両排水区にはとくにポンプ場をつくった。また、豊川流域の汚水は野田町の下水処分場に入れ、豊川に放水した。なお、野田処分場の汚水処理の方法は、促進汚泥法(そくしんおでいほう)と呼ばれる当時としては最新鋭の設備を誇るものであった。
排水総面積は六二九ヘクタール、工事に従事した失業労働者は延べ四〇万六〇〇人、工事終了は昭和十年度(一九三五)であった。
豊橋市下水道計画一般平面図 「豊橋下水道50年史」より
町村合併で一四万都市へ
豊橋の工業化を妨げていたのは、工業用地をもたないことであった。昭和五年(一九三〇)に市長に着任したばかりの丸茂藤平(とうへい)は、隣接町村合併案を発表した。
しかし、市会は、梅田川以南の合併は、無意味であるばかりでなく、もし高師村全村を合併することになれば、梅田川の改修で市の財政が圧迫されるため、合併に反対した。
市長は、強力に合併の方針をすすめ、昭和七年九月一日を期して合併は実現した。市域面積は、合併前の四倍強、人口は、約一・四倍、町数は三倍弱、耕地は七倍強となり、全国の都市との比較では、人口は、一三万九五三三人で全国一八位、面積では第五位にまで上昇した。ところが、新しい豊橋市は広大な農村部を合併しため人口密度は大幅にさがり、かえって田園都市の性格を強めることになってしまった。しかし、このことによって将来港湾を持った工業都市として発展する条件がつくられたのである。