市電の開通

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 都市計画とならんで、豊橋の近代化に一役買ったのが市内電車の開通であった。大正四年(一九一五)以降、各地で電気鉄道が創設され始めると、豊橋市内にも路面電車を敷設しようとする動きが表れた。市内電車はこれまで二回計画され、市から許可が与えられていたが、いずれも会社設立ができず実現しないでいた。しかし、近代都市として豊橋を発展させるためには、市内交通機関の整備が絶対に必要であった。
 大正十年十一月、豊橋電気株式会社の武田賢治(けんじ)は自動車鉄道を設けようとしたが、政府は交通機関の電気利用を考えていたため、電気鉄道に変更して国の許可を受けた。しかし、折りからの不景気や大正十二年九月の関東大震災の影響もあって具体的な事務は進行せず、一時は計画の挫折も心配されたが、やがて追加発起人も加えて同年十二月に第一回発起人会が開催された。この発起人会において資本金五〇万円、株数一万株のうち発起人三二人が五〇〇〇株を引き受け、残株を五株単位で翌十三年までに市民から募集することで話がまとまり出発することができた。
 新会社の名称は豊橋電気軌道(きどう)株式会社と決定した。残株の募集については創立事務所が直接市民を勧誘することにしたが、締切一週間前までの応募数は予定の三分の一にも満たない一三〇〇株に過ぎなかった。しかし、創立事務所の根気強い勧誘と、路面電車の開通によって繁栄をあてこむ東田遊郭(ゆうかく)の経営者などの奔走もあって、大正十三年二月に全株式の引き受けを完了した。翌三月、豊橋商業会議所においてようやく設立総会が開かれ、続いて開催された取締役会で武田賢治を社長に選出した。
 はじめの計画では
(一)豊橋駅前→新停車場通り→豊明館(ほうめいかん)前(神明町)→瓦町→東田遊廓→八町通→大手通り→豊明館前の線
(二)大手通り→柳生橋の線
(三)豊橋駅→船町の線
 以上の三線であった。しかし、豊明館前から瓦町を経て東田遊廓にいたる線は、人口が少なく採算がとれる見込みが立たないので除外し、神明町から北に曲げ公会堂から東へ旭町、東田遊廓に至る線に変更した。こうして線路敷設の工事が進められ、大正十四年五月には東田線の赤門までと柳生橋線の大部分ができあがった。さらに東田の車庫も完成したが、かんじんの東八町赤門前(あかもん)から東田間の市道が狭く営業許可が下りなかった。そこで、当面は支障のない豊橋駅前から東八町と大手通りから柳生橋間の運転開始を申請した。同年七月上旬は雨天続きであったが、その間も最後の工事をおこなって七月十日、全面的に完成した。
 大正十四年(一九二五)七月十四日祇園(ぎおん)祭の当日、豊橋駅・豊明館前・大手通り札木十字路間と豊橋駅・柳生橋間の営業運転が開始された。運賃は、駅から東田終点までを七つに区切り、二区間までは一区当たり三銭、三区間以上は一区当たり二銭とした。開通の初日は終日満員で、二一一四人の乗客を運んだ。開通記念として、開通の三日間は片道運賃で往復券をサービスし、花電車二両が運転された。同年十二月には、さらに東田線が終点の東田遊廓まで開通し、総工費二十九万円余を投じた路面電車は、四・一六キロメートルの全線が開通した。なお、当初予定の豊橋駅・船町線は道路が狭くて軌道敷設が不可能であったため、昭和十一年(一九三六)ついに廃止を決定した。

開通時の市電路線


当時の市内電車