同年六月、市はすでにあった豊橋病院を買収して市民病院を開設することを決定した。はじめ、市は日赤豊橋診療所で無料患者を扱い、市民病院で軽費(けいひ)患者を対象にしたいと考えていた。しかし、先進諸都市の調査で軽費患者対象の単独病院は少なく、いずれも一般病院の中にこれらの制度が組み入れられていることがわかった。そこで、市では市民病院を一般病院として経営することにして事業収入を増やし、その中に無料または軽費診療制度をつくることにより初期の目的を遂げようとした。
これに対し、医師会では市立の病院が一般病院として経営されることに強い危機感を抱き、市民病院設立反対の理由を記したパンフレットを市内各戸に配布した。丸茂市長は医師会の強い反対にもかかわらず、市民の福祉増進のため予定通り市民病院建設を断行する方針を発表した。
昭和七年(一九三二)一月、市会本会議で市立豊橋病院設立案が承認された。名称を「市立豊橋病院」とし、診療患者を外来・入院の二種とした。診療科目は内科・外科・小児科・産婦人科・耳鼻咽喉科の五科に決定した。
同年六月、市立豊橋病院は開院した。一般・軽費・無料の三種に分けて診療をおこない、無料診療券は県知事の委嘱による方面委員(豊橋市には一二人)を、軽費診療券は町総代を通じて交付されることになった。軽費診療の対象は月収一二〇円以下であり、当時の標準月収が五〇円~六〇円であったことを考えると、かなりの家庭が恩恵を受けることができた。その一方で、医師会の受けた打撃は大きく、患者確保のため診療の協定料金はしだいに崩れていった。
市立豊橋病院 「豊橋市民病院史」より