百貨店の進出

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 道路網や上下水道の整備が進む昭和初期、豊橋の街並みもようやく都市らしい様子を帯びてきた。
 しかし、昭和恐慌以後、深刻な不景気のなかで豊橋の商店街も売れ行き不振にあえいでいた。しかも、名古屋の有力百貨店や京都の呉服屋の出張販売が地元小売り店の客を奪ったうえ、昭和七年(一九三二)には横町に旭デパート、松葉町にエビス百貨店が開業し、ますます小売り店の経営を苦しいものにした。
 全国的にも、前年ごろより小売商たちは百貨店に対抗する組織をつくり始めていたし、政府も昭和七年、商業組合法を制定して小売業の集団化をはかった。
 豊橋でも、商工会議所の補助団体の一つである豊橋広告協会が、第一回ウィンドウ装飾協議会を実施するなど活動を開始した。また、小売り店有志たちも清和会を組織し、小売り店の経営を改善するための研究会を持つようになった。
 こうした情勢のなか、昭和七年、広小路通りの神明町よりに営業していた豊橋物産館(ぶっさんかん)が経営難におちいったため、京都の丸物(まるぶつ)百貨店が大株主になって経営にあたろうという話が持ち上がった。これに対し、清和会はいち早く反対運動に乗り出し、市内三六の小売商店組合をまとめて丸物百貨店の進出反対を商工省と日本百貨店協会に陳情することになった。
 商工会議所を仲介にして協議の結果、小売商側は丸物側に対し、増改築や拡張をしない、取扱い商品も物産館時代と同じにするなど丸物側譲歩の覚え書きを交わすことに成功した。しかし、市民の間には、都市化を象徴する百貨店の進出を歓迎する空気が強かった。

丸物百貨店

 
ロマネクス様式の豊橋市公会堂
 豊橋で集会の開ける場所といえば劇場ぐらいしかなかったため、市民は公会堂の建設を待ち望んでいた。大正九年(一九二〇)、たまたま電気事業の市営化と電気料金の値下げをめぐり、第一次電化争議が起こった。この時、愛知県知事の調停に応ずる代償として、豊橋市は名古屋電燈会社から寄付の約束をとりつけた。
 昭和六年(一九三一)中村与資平(よしへい)の設計により、総工費一七万円余、鉄筋コンクリート造、総面積約二八〇〇平方メートル、大講堂収容人員一三〇〇余人(戦後改装されて定員七五四人)の公会堂が完成した。
 正面入口の列柱はコリント式、その列柱(れっちゅう)に支えられた半円アーチ、天井はロマネスク式である。また、随所に美しいステンドグラスが用いられている。ロサンゼルスオリンピック背泳で優勝した清川清二選手の激励会や祝賀会を皮切りに、その後、数々の催し物がここで開かれた。
 豊橋の近代化を象徴する建物であり、現在でも、豊橋の誇る建築になっている。