石巻村の柿栽培

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 養蚕業の低迷は豊橋市の農家にとってきわめて影響が大きく、各農家はその対応に苦しんだ。そのなかで浮上してきたのが柿栽培であり、石巻村を中心に急速に広がりを見せた。しかし、この柿栽培も決して平坦な道のりではなかった。明治期までは、甘柿や渋柿などいくつかの品種がこの地方でも栽培されていたが、いずれも自然のままに放置され積極的な栽培方法は確立していなかった。また、一時期、急増した桑畑に押されて柿栽培の面積を増やす余地もなかった。しかし、大正期に入ると生活レベルが向上して購買力が高まったこと、また豊橋に第十五師団が設置され、人口もしだいに増加して消費者が増えたことを背景にし、柿栽培への工夫もみられるようになった。
 大正元年(一九一二)石巻村小野田の山本鉄次(てつじ)、山本清次(せいじ)、鈴木周次(しゅうじ)、杉浦市次(いちじ)の四人は、宝飯郡三上村の杉山又吉から次郎柿(じろうがき)の苗二〇〇本をもらい受けて植付け、さらに四年、鉄次は岐阜県から富有柿(ふゆうがき)の苗を持ち帰った。これが、石巻村における本格的な柿栽培の始まりであった。
 大正十一年から大正末期にかけて病虫害による被害が広がり、石巻一帯に廃園が続出したことがあった。しかし、当時玉川農業補修学校長だった鈴木繁尾(しげお)は苦労の末に病害の防除法を確立、昭和五年(一九三〇)に八名郡果樹組合を組織して初代の組合長になり、栽培技術の普及指導はもちろん、販売方法についても工夫を加え、「柿は作るにも困らぬ、売るにも困らぬ」という信念を広めた。こうして、昭和九年には石巻村の柿栽培面積は愛知県下の第一位を占めた。
 しかし、太平洋戦争に入ると食糧生産のため、さつまいもへの転作を余儀なくされ桑畑と同じ運命をたどった。栽培面積は大幅に減少し、大正期の規模に縮小した。
石巻村の柿栽培本数と収穫量
年次樹数収穫量
大正2年1,400本980貫
4年1,500 375 
6年1,450 500 
8年1,450 1,400 
10年3,500 5,500 
12年2,950 6,107 
14年3,000 6,500 
昭和元年3,100 6,300 
6年11,595 10,066 
11年18,259 
13年17,309 20,210 
15年18,035 54,105 
17年3,803 142,500 
19年3,511 58,000 
21年3,400 14,800 
「石巻村誌」より