温室園芸のはじまり

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 昭和十七年(一九四二)に刊行された「愛知県特殊産業の由来(ゆらい)」には、豊橋市域拡張前の渥美郡牟呂吉田村北島が「我国温室園芸発祥之地(はっしょうのち)」として名高い存在であったと記されており、豊橋地方の温室園芸が全国的に知られていたことがわかる。
 とくに、昭和期にはいって養蚕業が不振になると温室園芸は急に普及し、豊橋だけでなく宝飯郡や渥美郡の農家へも拡大し、この地域全体で三万坪余(一〇ヘクタール)、一千棟余の規模に達した。まさに、他地域に例を見ないほどの温室園芸地域が形成され、発展を遂げたということができる。
 この発展のもとになったのは、北島に住んでいた中島駒次(こまじ)とその実兄の中島龍松(りゅうまつ)、そして、船町で醤油(しょうゆ)製造業を営んでいた服部平之助(へいのすけ)の工夫と努力によるものが多かった。大正十二年(一九二三)には、東京農科大学の原博士の指導を受けるなど、温室や栽培技術の改良に努めている。
 温室での栽培の中心は、トマト・メロン・キュウリであった。そのうち、トマトは明治三十五年(一九〇二)に中島駒次によって試作され、昭和十年ごろには全国一の生産地になった。キュウリも中島駒次の抑制栽培によって始まった。当初、十二月の出荷が主力であったが、加温(かおん)の工夫によって春の出荷が可能になり、温室ものでは全国一の生産量を誇るようになった。
 昭和初期、出荷先は大阪を主に京都・神戸が多く、関西市場との結びつきが強かった。このころまで、各農家は個人出荷の体制をとっていたが、多くの不利な点が生じたため昭和四年、それまでの北島を中心とした北島温室出荷組合の名称を豊橋温室園芸組合と改め、再編成した。

北島・吉川・三ツ相の温室分布 「郷土研究愛知県地誌」より

 こうして、作物の成長・開花・結実をコントロールして出荷時期を調整する温室園芸は、高収益をもたらすものとして着目され、豊川市国府、小坂井町、蒲郡市など近隣の農家に普及し、さらに全国へ広がっていくことになった。
 このように、豊橋地方におけるこの時期の温室園芸は、歴史の古さと規模において日本一の地位を確保した。第二次世界大戦後、渥美半島の表浜地区を中心に全国最大の温室園芸地域が形成されたことは、北島を発祥地とするこの時期の温室園芸と無縁ではなく、むしろ、それまでの栽培技術の経験を積み上げ、拡大・発展させたものであった。

温室でのメロン栽培
「豊橋郷土誌」より

 
中島駒次の温室技術
 中島駒次は、自宅の風呂場横に五坪(一六・五平方メートル)ほどのフレームを利用したガラス室を建設し、山椒(さんしょう)の促成栽培を開始した。
 ガラス張りの温室は、昼間は太陽熱を吸収して温度が上がるが、夜は急に冷え込むので温度の格差が大きく、植物は枯死してしまう。そこで、風呂の湯を温室に通したり、火鉢・石油コンロを持ち込むなど温室内の温度を一定にすることに工夫を重ねた。
 当時、温室作業で一番大変であったのは、夜間保温のために徹夜で石炭をたき続けることであった。百ワットの電熱を利用する方法もあったが費用がかさみ経済的に余裕がなかった。
 そこで駒次が考案したのが中島式ボイラーである。ドラムかんを切ってかまどを作り、その中へおがくずをつめて下から火をつける。火は朝まで燃え続け、その熱で沸いた湯によって温室を暖めるというものであり、手間・費用ともに省ける重宝なものであった。