養鶏の普及

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 養鶏は、大正から昭和にかけて農家の副業部門として重要な役割をはたすようになった。とくに、昭和の初めごろから農業恐慌下の豊橋地方での普及はめざましく、昭和七年(一九三二)における豊橋駅の鶏卵(けいらん)発送高は全国一の規模を示すに至った。

鶏卵の積出(豊橋駅)

 しかし、この背後には先覚者による養鶏技術や品種改良に関する多くの努力がある。もともと、愛知県の養鶏は名古屋士族によって独占的におこなわれていた。飼育形態は放し飼いによるものであった。
 こうしたなか、独自の養鶏技術の開発を試みたのが渥美郡大崎村の小柳津友治(おやいづともじ)であった。明治二十四年(一八九一)、五〇〇羽規模での飼育を開始し、その後、彼は豊橋へ進出して羽数を増やし、採卵養鶏に徹して三十年には七~八〇〇〇羽と全国でもトップクラスの経営規模に発展させた。さらに彼は、産卵量が名古屋種、三河種を大きく上回る白色レグホーンをアメリカから輸入した。鶏舎(けいしゃ)方式の飼育法が東三河で普及したのは、これ以後である。
 明治三十年代半ばには県の奨励もあり、各農家に第一次世界大戦後の農村不況からの脱出策として養鶏熱が高まった。昭和期に入ると、この動きはさらに活発化し、老津村では十四年には四万羽を越えた。
 養鶏が盛んになると、飼料入手にも工夫がおこなわれるようになった。かつて、飼料は豆カスや米ヌカ、魚のアラが中心であったが、小柳津友治は、それらの供給量が追いつかないことを見越し、当時の満州からコウリャンやトウモロコシを輸入することにした。こうした彼の先見性が養鶏発展の基盤となり、豊橋地方の鶏は白色レグホーンに統一され、生産された卵は白皮大卵として名声を得た。