こうした状態が続く昭和二年(一九二七)三月、一部の銀行の不良経営が明るみに出た。不安に駆られた人々は銀行へ預金引き出しに押しかけ、取付騒(とりつけさわ)ぎが発生した。休業する銀行が続出するなか、政府はモラトリアム(支払いの猶予)を実施し、全国に広がった金融恐慌(きんゆうきょうこう)をようやく鎮めた。
豊橋でも、モラトリアムの実施された昭和二年四月二十二日朝、各銀行の店頭に二日間休業のはり紙が掲示され、市民を驚かせた。米穀(べいこく)取引所はモラトリアム期間中は休会することに決定した。銀行の業務は、二十四日が日曜日であったためその翌日から再開されたが、混雑するのでは、との予想に反していつもより閑散としていたという。心配された取付騒ぎは幸いにも起きなかったが、それでも銀行に対する不安は消えなかったようである。銀行から郵便局へ預け換えする市民も多く、豊橋郵便局の預金受け入れは、四月末には一日当たり二、三万円と、平常時の一〇倍にも達するほどであった。
金融恐慌は大銀行への集中を進めた。この時期、成長の速度を速めた財閥(ざいばつ)は、やがて日本の運命をも左右することになるが、当面、豊橋における金融恐慌は大きな混乱もなく過ぎた。もっとも、製糸業に次ぐ豊橋の重要産業である麻真田(あささなだ)産業は深刻な影響を受けた。すでに、全盛期を過ぎて減退の時期にあったとはいえ金融恐慌はそれに拍車をかけ、生産額は激減した。
しかし、豊橋の主産業である製糸業は、その当時、まだ決定的な打撃を受けていなかった。金融恐慌に際して玉糸(たまいと)業者は五日間の休業を申し合わせたが、恐慌の時期を過ぎてからはアメリカ経済の繁栄に支えられて景気は悪くなかった。玉糸と生糸それぞれの生産量は似たようなもので、合計で見ると、昭和二年は約二二〇〇トン、三年はほぼ横ばい、四年には約三一〇〇トンヘと増加している。
昭和四年(一九二九)十月、ニューヨーク株式の大暴落をきっかけに恐慌がアメリカ経済を襲った。その衝撃はたちまち全世界に伝わり、世界恐慌を引き起こした。これより少し前の七月、政府は為替(かわせ)を安定化して企業の国際競争力の強化をはかろうと金本位制導入の準備を進めていた。そのため政府は、予算を削ってデフレ政策をとるとともに、五年一月から金解禁(きんかいきん)を実施すると発表した。この政策は、世界恐慌が日本に波及する最悪の時期に重なることとなり、国内物価の低下、さらにそれを上回る海外物価の低下、そして輸出の激減と、日本経済はかつてない不景気のどん底に突き落とされた。これを昭和恐慌と呼ぶが、もちろん世界恐慌の一環である。
とりわけ、生糸の最大の輸出先であったアメリカの不景気は、製糸を主産業とする豊橋に再起不能ともいえる打撃を与えた。昭和四年十二月に一一二〇円であった生糸価格は、五年に入って下落する一方であり、六七五円の繭(まゆ)で六二〇円の糸をつむぐというありさまであったが、同年九月にはとうとう五一〇円になってしまった。経営は完全に行きづまり、大部分の工場は賃金すら払えず休業する工場が続出した。退職金なしで投げ出された女工は、帰郷する旅費もないという惨めさであった。
新朝報 昭和4.11.8 豊橋市中央図書館蔵
昭和六年(一九三一)六月、アメリカ合衆国フーバー大統領は不景気克服のため、第一次世界大戦の賠償金と戦債の国際的なモラトリアムを宣言した。これをきっかけに生糸価格は回復に転じ、業者はいっせいに生産増加をはかろうとした。しかし、実際にそれができたのは大企業だけであり、原料の手持ちの少ない中小業者は、生産増加どころか大企業に圧倒されていくばかりであった。
昭和六年九月、東三生糸製造同業組合が中小業者のために賃金引き下げの陳情を当局に提出して苦境の打開をはかった。それでも救済されない小規模業者は生糸生産に見切りをつけ、アメリカから輸入された古絹靴下ほぐしに転業しはじめた。これが再生絹糸(さいせいけんし)業で、こうした業者が豊橋市内に二〇工場を数えるようになった。
同年十月、市内の製糸業者は一日より二〇日間の一斉休業を申し合わせたが、事態の改善はあまり進まなかった。翌月には二度めの賃下げの要求を提出するとともに、長期操業短縮を全国に拡大するための運動を開始した。
製糸業から始まった豊橋の昭和恐慌は他のあらゆる産業に及び、市内に多数の失業者をはんらんさせ、ルンペンという言葉を流行させた。昭和五年四月に四〇〇人を数えた豊橋の失業者は、翌六年十月には一〇〇〇人を突破するほどになった。
職業紹介所の失業者
世界恐慌以後、欧米列強はアメリカ合衆国をはじめそれぞれの立場で必死になって不景気を乗り切ろうとはかった。日本もまた同様であるが、各国の利害関係が対立して国際間に緊張をもたらした。結局はそれらの解決を見ないまま、世界は戦争への道をたどっていく。やがて世界を覆(おお)う暗雲は、工業化の課題を背負って進む豊橋のいばらの道を暗示する不吉なきざしでもあった。