争議の発端は、昭和四年(一九二九)一月の市会であった。それまでの東邦電力(名古屋電気の後身)と市側の電気料金をめぐる交渉に関する質疑が交わされたが、市の対応が手ぬるいとして同年五月、市会は電気料金調査委員会を設置した。この委員会の結成は東邦電力に相当な圧力をかけることとなり、七月には会社側は交渉に応じたが、それでもなお値下げを認めようとしなかった。しかも、東邦電力は翌五年八月、水窪電気・豊橋電気を合併して中部電力株式会社と名を改め、会社組織を強力なものとした。
昭和五年九月、市会の電気料金調査委員会は、対抗手段として電動力需要組合と各町総代を招き、協議会を開いた。組合は電価値下期成同盟会を結成し、総代会は市民運動として支援することを約束した。電価争議が市民の手に移されたのである。
参陽新報 昭和5.9.19 豊橋市中央図書館蔵
中部電力は運動の広がりを警戒し、市ヘ一万五〇〇〇円の寄付を申し出たり、生活困窮家庭の電灯料の全免を発表するなどして運動の分裂をはかろうとした。
これに対し、総代会はそれを値下げ要求とは切り離して運動を進めた。昭和六年二月、総代会は会社に対して定額電灯料金の即時二割値下げを要求するとともに、電灯利用者一万五〇〇〇余人から料金二割を延納するという署名を取りまとめ、三月一日より実施することを決定した。
総代会が対決姿勢をはっきり打ち出したことにより四月八日、会社側は電灯料金を払わない世帯には送電中止という強行策に出た。
会社側の強行手段に対し、総代会は同日、ただちに豊橋劇場で経過報告の大演説会を開いた。昭和六年四月十三日には、花田町と西小田原町二百数十戸は、料金不払いを実行するため三月分の電灯料金四三〇余円を豊橋供託局(きょうたくきょく)に供託した。闘争はさらに供託から廃灯(はいとう)・減燭(げんしょく)へと進んで泥沼化していったが、会社側は強硬姿勢をゆるめなかった。こうしたなかで、いっせい廃灯に向けて闘争を強化しようとする総代会の足並みもそろわなくなってきた。長引く闘争に市民はうんざりし、電価争議の新聞記事も減ってきた。緊迫感に欠けてきたのである。
昭和六年十月三十日に至りようやく妥協が成立し、総代会と会社側の間に覚書(おぼえがき)の調印がおこなわれた。これにより、総代会は電価二割値下げの要求を取り下げ、その代わり会社側は七万円を市に寄付することになった。こうして二年余にわたる電価争議は終わった。総代会委員会と実行委員会連合会も解散し、暗黒化していた町並みもしだいに明るさを取り戻したが、時間のかかった割に得るものは少なかった。
第二次電価争議は、地元電力業界の一本化をめざし、強大化をはかる中部電力の強硬姿勢が市民の要求をはねつけるという形で終わった。会社の背後に全国的な組織を持つ電気協会が控えていた。会社側はこれを強力な後ろ盾(だて)とし強硬な態度を続けたのである。一方、総代会は団結力だけが頼りであったが、市民をまとめることはできず分裂を重ねる結果に終わってしまった。
昭和初期、電価争議は全国各地で多発した。昭和三年九月から四年三月までの記録を見ると、最も多い月で八四件の争議が継続または発生している。争議は昭和五年、六年にかけて続いたが総数は不明である。背景には社会運動の成長と不景気の進行があり、豊橋の場合もその一連の動きとして捉えられよう。
札木のスズラン灯
激しさを増す暗黒化運動
昭和六年五月一日未明、中部電力は西小田原町二九戸に対し、断線を強行した。これに対して一日夜には西小田原町三八〇戸は昼の町民大会の決議に従って一斉同情消灯を実施した。
同情消灯は他の町内にも及んだ。五月二日には萱町線牟呂用水路を境として南部一帯約一〇〇〇戸が、四日にはさらに二〇〇〇戸が加わった。五月五日、東小田原・立花・八通・中郷・野添・中央・西宿の七か町は連合市民大会を開き、会社が第二次の断線をおこなうようなら「一斉消灯によって戦う」ことを決議した。廃灯・減灯(げんとう)を決議をする町内が次々に現れ、門灯の廃止申し込み数は二〇〇〇灯と、全市門灯の四割に達した。暗黒化運動の急展開である。
市内の目ぬき通りを照らしていたスズラン灯とアーク灯も、五日夜に常磐(ときわ)通りの一部が、六日夜には広小路の大部分が消灯した。しかし、不景気の中で消灯戦術で会社に対抗していくことは大変であり、町中の灯は消え、商売はあがったりであった。