市と商工会議所は、大企業の誘致を当面の目標に掲げて活動を開始した。しかし、地価の値上がりや企業の出す条件が折り合わず、誘致活動は順調に進まなかった。
こうしたなかで、昭和七年(一九三二)十二月、中央財界では「日本人造(じんぞう)羊毛工場株式会社」を創設する計画が持ち上がり、その候補地の中に豊橋が加えられていた。この会社は、敷地面積一〇万坪(三三万平方メートル)、最終的従業員三〇〇〇人の規模を持ち、誘致の経済的メリットはきわめて高いとみられた。さっそく、商工会議所、市会は代表を送って誘致に乗りだし、市も同社に対して市税の面で有利な条件を提示した。
人毛工場建設促進市民大会
会社側は最適地として牟呂(むろ)地区を選び、昭和八年十二月には高須(たかす)新田の一部の買収を決定した。しかし、そのころから他の地域の例で、工場廃液がノリやアサリに被害を与えるという事実をつかんだ東三河の漁民たちが、東三水族擁護(ようご)同盟会を結成して誘致反対運動を起こした。市は反対運動を押し切る方針をとる一方で、別の候補地の準備にも努めたが誘致交渉は困難をきわめた。翌年になっても反対運動はおとろえず、時には三〇〇〇人の漁民が県庁におしかけることもあった。会社側は、ついに豊橋との契約を取り消し、大分市への建設を正式に決定した。
誘致交渉の失敗は、生活権を守ろうとする漁民たちの勝利ととらえるだけでなく、水質汚濁(おだく)防止法制定への気運を高めたという点で評価できるものがある。しかし、誘致をはかり豊橋の工業都市化を進めようとする市に取っては手痛い打撃であった。
人造羊毛工場誘致をめぐる交渉が難航する昭和九年(一九三四)、もう一つの工場誘致が進行していた。市と商工会議所は、大清水に五万七〇〇〇坪(一八万八〇〇〇平方メートル)の用地を確保して相模(さがみ)紡績の誘致を計画し、翌十年二月には正式に契約を交わした。相模紡績はその後、同し資本系列下の富士ガス紡績と合併した。誘致した大清水の工場は、十一年春、富士紡績豊橋工場として操業を開始した。この誘致成功は、敷地が渥美(あつみ)電鉄会社の所有地であり用地買収の問題がなかったこと、地元との利害関係の対立がなかったこと、水や交通の便に恵まれたことなどの好条件が背景にあった。
人造羊毛工場の誘致反対運動は、企業誘致そのものの反対ではなく、企業の業種と建設用地にまつわる問題を市民生活といかに調和させるかを問いかけるものであった。この貴重な教訓にもかかわらず、昭和十二年の蚕精絹糸(さんせいけんし)工場の誘致交渉では排液処理をめぐって漁民と対立し、またも不成功に終わっている。
工場誘致政策がはかばかしく進展しないため、法人税や所得税収入が乏しく、市財政の財源は地税など農村部に依存していた。昭和十二年の市税一人あたりの平均は、東海地方の中小都市のなかで瀬戸(せと)市をわずかに上まわる二番めの低さであり、工業化の遅れによる市財政の貧困を雄弁に物語っている。
豊橋にとっての不幸は、昭和恐慌後の日本の進路が満州市場の独占と軍需(ぐんじゅ)工業による不景気脱出へと向いたことである。昭和八年から九年にかけて日本の景気は回復したが、その主役は大企業による金属・機械・化学など重化学工業の成長であった。大資本の独占化が進む一方で、農村の窮乏や中小企業問題は解決されないままであった。これらの状況は大資本に見はなされ、依然として農村依存型を続ける市財政の見通しをますます暗くするものであった。
こうしたなかで、都市近代化の行きづまりがはっきりした形となって豊橋市の前途をふさいだのは、日中戦争の開始が迫る昭和十二年ごろである。道路網整備の面では、第一期工事は十一年に完成したものの、駅前広場を含む第二期計画は実施困難になった。柳生川(やぎゅうがわ)の改修工事、豊川の改修工事もあい次いで中止された。ついには、久しく待望していた豊橋築港(ちくこう)も、日中戦争開始後の十三年、軍事予算の膨張にともない、岸壁の一部をつくっただけで事実上の中止に追い込まれてしまった。
皮肉なことに、都市近代化政策が行きづまった昭和十二年を境に、しだいに強化されてゆく戦時体制は豊橋に軍需工業の繁栄をもたらした。大日本兵器(株)・帝国鑿岩機(さくがんき)(株)などの大資本が進出してきたほか、これまで細々と営んでいた零細(れいさい)な中小鉄工場などが活気を帯びるようになった。工場誘致の失敗が重なった過去のいきさつは、時局の進展が押し流してしまったともいえるが、それは本来めざした豊橋の近代工業都市化とはまた別の結末であった。平和産業の圧迫を招き、豊橋の中心産業であった製糸業・紡織業ほか地場(じば)産業にとどめが剌されたのである。
豊橋の道路
豊橋市の道路網は、その先見性・合理性で全国規模からみても市民が誇り得るものである。そこで上図を見てほしい。これは第二期の整備実施を断念し、挫折した昭和十一年の道路網整備の計画図である。
豊橋都市計画公園並風致地区図 広田長平氏蔵
駅前大通り(紫)、昭和三十九年に完成した吉田大橋、そこから市街地を東西に二分する南北の幹線道路(中ぬき白)など、新しく線引きした道路が目に入る。さらに、二重、三重に環状線(赤・青)が取り巻いているのもわかる。現在の道路網と比較すると、これが六〇年も前の図面とはとても信じられない。挫折したはずの道路計画が、今、実現しているのを見て、当時の人々の先見性に頭が下がると同時に、それを放棄せざるを得なかった悔(くや)しさが伝わってくる。
いうまでもなく、現在の姿は戦後の戦災復興基本計画に基づく道路計画により、交通量の増大と防災の面から過去の計画はすべてご破算にして道路幅を広げてつくられた。事実、当時計画の道路幅は、最も広い駅前大通りで二七メートル、その他では一五メートル~二四メートルと狭かった。それでもなお、上図の道路計画は過去と現在をオーバーラップさせ、種はこの時すでに蒔(ま)まかれていたと主張しているかのようである。