世界恐慌は経済の面だけではなく政治面にも暗い影を落とした。不景気を切りぬける糸口が見つからないなかで、党利党略を優先する政党政治に国民は愛想をつかし始めていた。一方、中国では共産党がしだいに勢力を伸ばしてきていた。こうした内外情勢の不安を映し、大正の中ごろに芽生えた国家改造運動が具体的な実行運動に発展してきた。国家改造運動とは、天皇制を中心に国民の意志を統一し、国の体制を強化しようという運動であり、ファシズム(全体主義)の立場に立っていた。
こうした動きは大陸侵略の企てとも密接にからみ、昭和六年(一九三一)、軍部は中国東北部(満州)の問題を武力で解決しようと満州事変を引き起こした。事変が進展する同年十二月、民政党や政友会の一部議員は、超党派内閣による国家改造運動の実現を政党に持ち込もうとした。しかし、両党ともそれに全面的な支持を与えなかったため、ファシズム的な新党結成の動きが強まった。
豊橋のファシズム運動は、中央の新党結成とともに始められた。昭和七年、五・一五事件が起き、全国にその衝撃が走るなか、豊橋出身の衆議院議員の鈴木正吾(しょうご)、杉浦武雄(たけお)は民政党を離党した。
同年七月、鈴木正吾は、豊橋公会堂に一五〇〇人の聴衆を集めて新党結成の第一声をあげ、わが国が国家改造の時代に入ったことを宣言した。彼は演説の翌日からただちに新党の樹立に着手し、豊橋正吾会を組織した。
一方、杉浦武雄も新党運動を活発に展開した。彼を中心とした東三新興青年党は、東三政治経済研究所を創設し、東三河一円を国家改造運動の中に巻き込むことをはかった。昭和七年七月、青年党は杉浦武雄を総裁として党の基本綱領(こうりょう)を決定し、機関誌「東三公論」を発行した。こうした運動の進展とともに、杉浦武雄は豊橋民政党を解消して豊橋公民会とすることに成功した。その結果、彼の率いる青年党は、同年十月におこなわれた市会議員選挙で立候補者一〇人中八人を当選させるという健闘ぶりを示した。
中央における新党樹立運動は、昭和七年十二月、東京日比谷公会堂で国民同盟の結成式をあげた。豊橋からは、公民会・東三新興青年党の代表や参陽新報(さんようしんぽう)記者が参加した。国民同盟の結成は、さらに豊橋のファシズム運動を勇気づけていった。
また、昭和九年、公民会を支援する参陽新報社は、東京に本部をおく右翼団体の昭和神聖会(しんせいかい)と共同主催で非常時打開大講演会を開き、二〇〇〇余の聴衆にファシズム思想を宣伝した。これを足場に、昭和神聖会は三河支部を結成した。
豊橋の共産勢力は、昭和八年一月二十八日の愛知県下の大検挙で大打撃を受けたが、豊橋の労働組合はその後もメーデーを実行するなど再起をはかっていた。
昭和九年のメーデーにあたり、既成政党以上に共産勢力を敵視するファシズム勢力は、それを粉砕しようとしたが失敗した。労働者のなかに組織を持っていなかったからである。そこで、ファシズム的な立場で勢力を伸ばしてきた豊橋愛国団体連合会は、翌十年、さらに組織を強化した豊橋愛国社同盟を結成し、労働者への影響力の浸透につとめた。同年のメーデーに際しては、渥美電鉄従業員組合や豊橋自動車運転手組合などを次々にファシズム化し、国粋(こくすい)的な、いわゆる純正日本主義を旗印にして共産勢力とメーデーを粉砕しようとする動きを見せるに至った。
昭和十年の豊橋は、営業不振から豊川鉄道争議を中心に渥美電鉄など争議の渦中にあった。豊橋愛国社同盟は争議解決にあたり、解決の条件として労資合同委員会を設置し、同委員会で種々の問題を協議して決定するという純正日本主義的な要素を労働争議のなかに盛り込むことに成功した。
翌十一年二月、愛国社同盟は発展的に解散し、豊川鉄道、渥美電鉄をはじめとする諸組合は大同(だいどう)団結して東三愛国従業員連盟の結成式をおこない、共産勢力への対決姿勢を強めた。
同年二月二十六日、二・二六事件が起き、その中には豊橋陸軍教導(きょうどう)学校の将校二人が含まれていた。後に事件の一部が発表されて市民を驚かせた。豊橋もまた、ファシズムの渦中(かちゅう)にあったのである。