翌月に第二次近衛内閣が成立すると、同年十月、新体制運動は大政翼賛会(たいせいよくさんかい)として組織化された。翼賛会は内閣総理大臣を総裁とし、道府県知事を支部長に置いた官製の組織であり、政府の意向を確実に伝え実行するなど、国民生活の統制が主な仕事であった。また、労働組合も解散して大日本産業報国会に統合され、翼賛会の指導下におかれた。
豊橋では昭和十五年十一月、市長大口喜六はじめ商工会議所会頭、町総代会会長、市会議長、市政記者団が発起人となって大政翼賛運動豊橋即応会の発会式をあげた。これに先立つ十月の半ば過ぎ、市政の二大勢力であった同志派・実業派はあいついで解散した。両派とも時流には逆らえなかったのである。翌十六年四月、大政翼賛会豊橋支部が結成され即応会は解消した。支部長には大口市長の辞任によって昇格した近藤市長が就任し、市役所には振興課が新設されて支部事務局の役割を果たすことになった。
豊橋同盟新聞 昭和15.11.3 豊橋市中央図書館蔵
昭和十六年(一九四一)十二月、日本はついに太平洋戦争に突入した。戦争遂行のため、東条英機(とうじょうひでき)内閣の下で翼賛会は国民統制機関としての性格を強め、翌年には産業報国会・大日本婦人会・部落会・町内会・隣組(となりぐみ)を指導下に収めた。
豊橋でも翼賛会の方針を実践するため、各種の委員会が設けられた。昭和十七年には、市常会運営委員会をはじめ八つの委員会があり、それぞれ二〇人内外の委員が活動していた。たとえば、委員会の仕事に応じて、薪(まき)や炭(すみ)・ちり紙・牛肉などの配給方法の改善、冠婚葬祭(かんこんそうさい)の簡素化、会合時間の厳守など、日常生活のあらゆる面にわたり指導や呼びかけをおこなった。その後、実行面を強化するために推進員制度が生まれ、やがて翼賛壮年団(よくさんそうねんだん)が組織されたが、団員の中には多数の在郷軍人が含まれていた。在郷軍人というのは、非常時に際して召集される予備役にある者や退役(たいえき)した軍人を指すが、こうした団員が多数いたことにより、翼賛壮年団は軍隊的な傾向を強く帯びていた。それだけに実行力もあり、軍用機献納(けんのう)に、物資の横流し監視に、防空活動にと多方面で活躍する側面もあった。
市常会は、会長に支部長である市長、全市二三校区から校区ごとに町内会長の代表が一人ずつ、ほかに各種団体の代表という構成であり、隔月で年六回開かれた。この市常会には、中央→県→市の順で指令が下ってきた。市常会はこれをさらに町内会へと伝達した。このように上意下達(じょういかたつ)の機関ではあったが、市常会は校区から寄せられた諸問題を取り上げて協議する場でもあった。市長が司会し、市役所の各関係課長が出席して応答をする市常会は、当時、無力化してしまったかつての市会を思わせる様子であったという。しかし、市常会はあくまでも翼賛会の上意下達の機関であって立法機関ではなく、市政に実現しようとしても実施困難な場合があった。
常会資料 多米区有文書
町内会は翼賛会の下部組織として位置づけられた。町内会の組織づくりは従来の町総代を組織委員として進められた。新川校区のように手早く組織したところもあったが、長年にわたる伝統と利害のからみ合っている町の組織を、一方的に組織がえすることは多くの困難があった。横須賀(よこすか)・川崎・清須(きよす)の各町は合併することになったが、漁業組合の代表問題で合併をしぶった。逆に、羽根井の花中町と野黒町はどこで分割するかでもめた等々である。発足をあせる市の催促もあって、昭和十六年(一九四一)六月、ようやく全市一七五の町内会ができあがった。これにより、三五年間にわたる総代会は解散された。
町内会の運営は、会長のもとに町内の適任者を各係に選んであたった。とくに町内会長は、月に一回以上常会を開いて支部の指令や伝達事項を協議するほか、配給物資や公債の割当て、出征兵士の見送り、町民の移動証明、金属の供出(きょうしゅつ)の世話など、あらゆる面にわたって総括する大変な任務を持っていた。
牛川町西町町内会表札 豊橋市美術博物館蔵
町内会の末端(まったん)組織が隣組である。その範囲は、物資の配給や防空活動を円滑におこなうため、一〇戸から一五戸を標準に編成された。組長は町内会との連絡にあたり、回覧板(かいらんばん)を廻して組員にもれなく伝える責任があった。常会も開かれたが支部の指示に基づくものが多く、しだいに形式化していった。それでも、生活必需品などを隣組組織を通して受け取る市民たちは、いやおうなしに総力戦体制の中へ組み込まれていった。
国民意識を統制し、戦争遂行をめざした大政翼賛会であったが、結果的にはねらい通りに国民の力を盛り上げることはできなかった。上から下への一方通行では真の意味で国民の信頼を得られず、官製組織の限界を示したものといえよう。
戦局が敗戦に傾いた昭和二十年六月、男女を問わず国民を戦場へ駆りたてようとする義勇兵役法(ぎゆうへいえきほう)が公布され、大政翼賛会は解散した。