師団の廃止後も部隊の編成替えにより、歩兵第十八聯隊(れんたい)は名古屋の第三師団の指揮下にもどって存続したほか、騎兵(きへい)第四旅団(りょだん)司令部とその指揮下の騎兵第二十五聯隊・騎兵第二十六聯隊はそのまま存続した。なお、廃止された工兵第十五大隊の代わりに名古屋から工兵第三大隊が向山(現商業高校)に移転してきた。
しかし、三〇〇〇人余の除隊兵士がいたことはその分の消費人口が減ることになり、師団に依存してきた土産品店・料理屋・宿屋をはじめおよそ一〇〇軒の店は売上げが激減し、店じまいするところも出た。また、昭和二年(一九二七)の豊橋市とその周辺の空き家は五〇〇軒を数え、とくに空き家の多かった高師村方面の家賃は、三~四割値下げに追い込まれたという。
除隊兵員数 |
兵営 | 特務曹長 | 下士官 | 兵卒 |
歩兵第六十聯隊 | 17人 | 26人 | 1,248人 |
騎兵第十九聯隊 | 2 | 278 | |
野砲兵第二十一聯隊 | 27 | 805 | |
工兵第十五大隊 | 4 | 291 | |
輜重兵第十五大隊 | 20 | 522 | |
合計 | 17 | 79 | 3,144 |
「豊橋市史第四巻」より |
師団の廃止による経済的な打撃は、もともと産業基盤の貧弱な豊橋にとって決して小さくはなかったが、存続部隊のあったこと、残された施設がその後軍関係に利用されたことなどで、いったんは寂れた旧兵営付近の商店も活気を取りもどした。
昭和二年、歩兵第六十聯隊跡(現愛知大学)野砲兵(やほうへい)第二十一聯隊跡(現時習館高校)に豊橋陸軍教導(きょうどう)学校が設けられた。この学校は下士官候補者の養成機関であったが、日中戦争の開始後、軍はこの施設で予備役将校(よびえきしょうこう)の養成を始めた。将校の補充が急を告げたのである。十三年には下士官教育を打ち切り、翌十四年、豊橋陸軍予備士官学校を開設して本格的に将校の養成に乗りだした。これにともなって、教導学校は西口町に校舎を新築して移転したが、昭和十五年、ここも下士官教育を打ち切り、下級将校の養成に切り替えた。十八年には豊橋陸軍第二予備士官学校と改称し、豊橋には第一・第二と二つの予備士官学校が設置されることになった。その訓練はきわめて厳しく、休みの日にも外出は許されなかった。十三年以降、両校を合わせ豊橋から戦場へ送り出された予備役将校の数は三万人を越える。
豊橋陸軍第一予備士官学校絵はがき 菅谷慎一氏蔵
その他の師団跡には、騎兵第十九聯隊跡に福岡尋常(じんじょう)高等小学校、輜重兵(しちょうへい)第十五大隊跡に北演習廠舎(しょうしゃ)(兵士宿舎)などが置かれた。兵器支廠(ししょう)跡も含め、現在この一帯は愛知大学をはじめ、小・中・高・その他が集中する文教地区になっている。(二一三ページ参照)
師団衛戍(えいじゅ)病院はそのまま残り、日中戦争が始まると豊橋陸軍病院(現国立病院)となったが、それとともに増加する戦傷病者を収容しきれず、南栄地区に高師原分院を設けるほどであった。
満州事変から太平洋戦争にかけて郷土部隊が次々に動員された後、騎兵第二十五聯隊・騎兵第二十六聯隊の跡は兵器保管、軍馬の補充・調教の機関となった。また、歩兵第十八聯隊兵舎は、同聯隊の補充隊や歩兵第二二九聯隊などを編成して戦場へ送る場となった。昭和十六年以降は中部第六十二部隊と改称され、新設部隊の訓練と編成にあたった。補充や新設が重なるにつれ、仕事を離れ、家族と別れて営門(えいもん)をくぐる男たちが増えていった。三河と浜松市以西の静岡県諸郡の男たちである。
戦局がいよいよ苦しくなった昭和十八年(一九四三)、中部第六十二部隊に替わって、新たに中部第一〇〇部隊が新設された。この部隊は本土防衛の必要から飛行場建設の技術を研究するとともに、訓練を積んだ部隊を各地に送り出す目的で設けられたものであった。当時としては珍しい大型機械を用い、隊員も多い時には四~五〇〇〇人に達したという。しかし、せっかくの飛行場建設も、制空権(せいくうけいん)を失った戦争末期、本土防衛の役割を果たすことはできなかった。戦後、兵舎の一角に残された重機も風雨にさらされ、赤くさびつくままであった。