日中戦争と郷土部隊

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 昭和十二年(一九三七)七月、北京郊外の蘆溝橋(ろこうきょう)で日中両軍の武力衝突事件が起きた。この事件の背景には、先の満州事変の際、日本は国際世論を無視して力づくで中国の主権を侵したが、それがさらにエスカレートし、華北にまで権益を広げようとはかった日本政府および軍部の姿勢があった。
 事件後、停戦協定は結ばれたが、軍部の圧力に押された政府は、不拡大方針を変更して兵力の増強を決定した。日中戦争の始まりであり、太平洋戦争へとつながる十五年戦争の第二段階のステップを踏み込んだことにもなる。
 直ちに、歩兵第十八聯隊および工兵第三聯隊(向山)にも出動命令が下った。両聯隊とも、昭和九年の第二次北満(ほくまん)派遣以来の出陣である。
 昭和十二年八月、歩兵第十八聯隊は軍旗を先頭に営門を出発。見送る市民の歓呼(かんこ)の声を背に、大手通り、広小路を進んだ後、兵士たちは豊橋駅で肉親に別れを告げて戦場におもむいた。

歩兵第十八聯隊の出征

 同年九月、上海の呉淞桟橋(ウースンさんばし)に敵前上陸した聯隊主力の石井部隊は激戦を重ねた後、十一月に入ってようやく上海(シャンハイ)南市の封鎖に成功した。なお、第三大隊を中心とする飯田支隊は、上海郊外の飛行場をめざす戦闘で聯隊主力を上まわる激戦を続けた。
 三か月にわたる上海攻防戦で、聯隊は総兵力五〇〇〇人のうち戦死者一二〇〇人、負傷者三〇〇〇人に達する犠牲者を出した。豊橋からの補充兵を次々に送り込みながらの苦戦であった。
 上海戦は峠を越えたが戦火は拡大の一途をたどり、首都南京を占領後も日中戦争は収拾のめどが立たないまま泥沼化した。第十八聯隊に限らず、日本軍は至るところ抗日の文字が大書してある中を進軍することになった。これが戦争とはいうものの、中国民衆の生活を破壊しながらである。
 昭和十三年六月、漢口(ハンコウ)作戦が開始されると、第十八聯隊は第三師団の主力として作戦を支援した。上海上陸以来一年四か月、一〇〇〇キロメートルに及ぶ転戦の後師団司令部のある応山(インシャン)近くに駐留した。その間、第一次・第二次の長沙(チャンシャー)作戦などいくつかの作戦に参加した。
 昭和十七年七月、聯隊は師団の編成替えにより、第三師団から別れて関東軍第二十九師団に転属した。転戦五年、戦死者二六〇〇人を出して聯隊は華中から南満州の海城に向かった。

歩兵第十八聯隊の転戦図 「豊橋市史第四巻」より

 ここで聯隊は満州第六四七部隊と通称号を変え、対ソ戦略師団の中核として訓練に入った。
 一方、第十八聯隊と同時に出陣した工兵第三聯隊は当初中島部隊と呼ばれ、上海戦では石井部隊および飯田支隊を支援した。工兵隊は任務の性格上、第十八聯隊だけでなくその他の各聯隊にも細かく分かれて配属された。歩兵部隊の作戦を順調に遂行するため、銃弾の下で川に架ける橋の人柱(ひとばしら)になったり、補給路の開設などの仕事が主な任務である。まったく縁の下の力持ち的な存在であった。

クリークを渡る 「歩兵第十八聯隊写真集」より

 これより先の昭和七年(一九三二)、第十五師団廃止後も存続部隊として豊橋に在営していた騎兵第四旅団は、軍の命令により満州の北東部に移駐した。日中戦争が始まると、同旅団下の騎兵第二十五聯隊・騎兵第二十六聯隊はいずれも持ち前の機動力を発揮して中国各地を転戦した。戦局不利となった昭和二十年、中国の洛陽(ルオヤン)付近の老河口(ラオホーコウ)で世界戦史最後の騎兵戦を戦った後、聯隊は終戦を迎えた。満州出動以来一三年間、両聯隊合わせて七三四人の戦死者を出しての帰還となる。