サイパン グアムの戦い

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 昭和十七年(一九四二)六月、ミッドウエー海戦の敗北以来、戦局は暗転し、海空の主導権は米軍の手に落ちた。守勢にまわった日本軍は、消耗戦に耐えきれず後退を重ねる一方であった。昭和十八年九月、ついに大本営(軍の最高指揮機関)は、千島-小笠原-中西部太平洋-東南アジア占領地域を結ぶ線を「絶対国防圏(ぜったいこくぼうけん)」と定めて兵力の増強をはかった。とくに、この絶対国防圏の中核になったのがサイパン・グアムの位置するマリアナ諸島であった。
 昭和十九年二月、歩兵第十八聯隊に中部太平洋方面派遣の命令が下った。第二十九師団(雷)第三二一九部隊としての下令(かれい)である。聯隊将兵一般に伝える命令には機密保持のため、細かいことについて触れていなかった。故国に帰れるかも、兵たちは淡い期待を交じえながら海城を後にした。
 釜山港で聯隊将兵を乗せた輸送船は、二月二十五日、兵器・弾薬・資材・食料を満載して宇品港(広島)へ入港した。同港の沖で一昼夜停泊し、その間に船上で南方用の兵服との交換が慌ただしくおこなわれた。二十六日、三隻の輸送船は護衛の駆逐艦(くちんかん)に守られ、船団を組んで静かに宇品港を出港した。翌朝、朝もやの関門海峡を通過する時、南方戦線におもむくことを覚悟した将兵は、軍歌を歌って祖国と訣別した。頬には涙がつたっていた。
 航行三日めの二十九日、第十八聯隊将兵の乗る「崎戸丸」は、南大東島の南方二〇〇キロメートルの海域で米潜水艦の魚雷(ぎょらい)攻撃を受けて沈没した。乗船者およそ四〇〇〇人のうち一七二〇人は救助されたが、二二七〇人は海に沈んだ。乗船者の大部分を占める同聯隊は、聯隊長以下一六四六人を失い、兵力は半減してしまった。

崎戸丸 「歩兵第十八聯隊写真集」より

 変わりはてた姿でサイパンに上陸した第十八聯隊はその後の部隊編成で兵力を回復し、ようやく陣容を整えた。米軍の攻撃開始が近づく五月二十七日、聯隊はグアムへの転進命令を受けて移動を始めた。
 なお、豊橋の兵営では郷土出身者によって歩兵第百十八聯隊が編成され、第四十三師団(誉)第一一九三三部隊として、サイパンに派遣されることになった。昭和一九年(一九四四)五月三十日、護衛艦三隻を含む一〇隻の船団はひそかに故国を離れた。しかし、この船団も米潜水艦の攻撃を受け、六月五日には第百十八聯隊主力の乗る「高岡丸」が、その翌日には同聯隊の一部将兵が乗る「はあぶる丸」があい次いで撃沈された。船団はこの他にも三隻を失っており、七隻の輸送船のうち無事に到着できたのは二隻のみであった。第百十八聯隊は聯隊長以下の主力を失い、生存者はおよそ一〇〇〇人に過ぎなかった。
 第十八聯隊、第百十八聯隊の二つの郷土部隊は、いずれも目的地到着以前に手痛い打撃を受けたことになる。この悲報は厳しい報道管制をくぐりぬけて豊橋市民にも伝わり、留守家族の不安をかきたてたという。
 六月十五日、米軍サイパン上陸。グアムへの転進が時間的に間に合わなかった第十八聯隊の第一大隊は、夜襲攻撃をかけたが米軍の猛火を浴びてほとんど全滅した。第百十八聯隊も圧倒的な米軍物量の前にしだいに戦力を失っていった。
 七月四日、第百十八聯隊は、第四十三師団所属の他の二つの聯隊とともに聯隊旗を焼却し、わずか一年余の歴史を閉じた。
 昭和十九年七月七日、師団残存将兵三〇〇〇人は最後の突撃をおこない、玉砕(ぎょくさい)した。
 一方、第十八聯隊主力が転進したグアムに対してもサイパン戦の終了後、米軍の砲爆撃は激しさを増し、七月二十一日、上陸を開始した。このグアム攻防戦においても米軍の戦力は日本軍を圧倒的に上回っていた。戦闘開始後の一昼夜の戦いで、同聯隊第二大隊・第三大隊は兵力の半分以上を失った。
 七月二十五日、第十八聯隊の兵力はすでに三〇〇人に減少していた。この日、聯隊旗を焼却、同夜米軍陣地に夜襲攻撃をかけた。死傷者多く、ついに聯隊は戦闘能力を失った。
 昭和十九年七月三十日夜、なお残る六〇人が最後の突撃をおこない、歩兵第十八聯隊は玉砕した。

グアム島に向かう米軍上陸用舟艇 「歩兵第十八聯隊写真集」より

 はるか南の島で二つの郷土部隊が全滅した。将兵たちはすでに勝敗が決し、組織的戦力を失った後もなお戦い続けた。生きて捕らわれることを最大の恥辱(ちじょく)であるとした教育の徹底と、最後の一兵まで死力を尽くせと考える軍の体質が犠牲者を増加させた。
 いつの時代の、どこの国の戦争でも「正義」が掲げられた。太平洋戦争においても、大東亜共栄圏建設という美名で侵略が正当化され、多くの若者たちはその旗印のもとに戦った。戦争遂行に向け、国家の意志が個人の意志を圧倒した時代である。たとえ、偽りに満ちた正義であったとしても、国のためにと自らの心に言い聞かせ、戦場におもむいた若者たちがいた重い事実は決して消えない。
 ともあれ、絶対国防圏の一角が崩れたことは戦局に重大な影響を与えた。米軍は勝ち取った島々に日本本土爆撃のための巨大な空軍基地を建設した。ここを発進したB29は、やがて日本の都市という都市に爆弾と焼夷弾の雨を降らせ、残る戦力と、おびただしい人命を奪い去ることになる。
 
大崎島の豊橋海軍航空隊
 航空基地は大崎と老津にまたがる海上の約二三一万平方メートルに八角形に造成され、一五〇〇メートル三本を中心にした戦闘機用滑走路を配置し、豊橋海軍航空基地として完成した。昭和十八年四月一日に正式に豊橋海軍航空隊が開隊、搭乗員の練成隊(れんせいたい)として発足した。
 初代豊橋海軍航空隊は昭和十九年二月に廃止され、戦時作戦部隊として第七〇一海軍航空隊となり、三月北海道千歳基地に移動した。六か月の訓練ののち、台湾沖航空戦フィリピンの捷一号作戦と転戦し、同年十月二十七日からは第二神風特攻隊(かみかぜとっこうたい)となって機もろともレイテ湾の米艦船に突入した。
 サイパン島陥落後、昭和十九年七月一〇日陸攻大型機搭乗員練成を目的とした二代目豊橋海軍航空隊が誕生したが、短期間の訓練で転出していった。その兵員は三六〇〇人に及び、その中からたくさんの特攻隊員が沖縄戦で散った。しかし、二十年五月から六月にかけては飛行機も少なくなり、飛行訓練より穴掘りと防空壕生活で士気は低下していった。