配給制と耐乏生活

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 日中戦争が拡大の一途をたどる昭和十三年(一九三八)四月、国家総動員法が公布され同年五月から施行された。この目的は戦争遂行のため、必要に応じて国民を徴用(ちょうよう)したり、物資を徴発したりする大幅な権限を国家に与えることであった。その後、十六年の改正で政府の権限は一段と強化された。
 こうした政府の権限強化は、しだいに国民生活を圧迫していく。すでに、ガソリン・鉄鋼・石炭・綿糸・ゴム製品などの戦略物資は、昭和十三年から統制品目になっていたが、まだ日常生活を脅(おびや)かすほどでもなかった。しかし、戦争が長びくにつれて物資不足は目だち始めた。なかでも、食料事情の悪化は国民生活に最も大きな影響を与えるだけに、政府としても、ぜひ対策を立てる必要があった。
 昭和十五年、政府は米穀管理規則を定め、米の買い上げを一手に引き受けたうえで国民に配給する制度を整えた。十六年、六大都市をはじめ豊橋・浜松・岡崎などの地方都市へと実施区域は広がっていった。一一歳から六〇歳までの男女には一日当たり二合(ごう)三勺(じゃく)(三三〇グラム)の米を配給するというものである。この配給量は、栄養補給の大部分を米にたよっていた当時の食生活のうえからみてギリギリの線であった。
 太平洋戦争が始まると、物資の不足はいよいよ激しくなり、昭和十七年、食糧管理法が施行された。これにより、米麦のほかに雑穀(ざっこく)・さつまいも・じゃがいも・めん類など主要食料品の大部分が国家管理のもとに置かれることになった。さらにこの年、味噌(みそ)・醤油(しょうゆ)の配給制に続き、一人一年間、一〇〇点の切符の範囲内に購入を制限するという衣料の総合切符(きっぷ)制が実施された。一〇〇点で買える分量では年間の必要量にとても足りず、穴のあいた靴下の繕(つくろ)いが子どもを多く抱えた主婦の大事な夜なべ仕事であった。

衣料切符 豊橋市美術博物館蔵

 配給品目は次々に増え、昭和十七年五月の例では、前記の品以外にも食用油・菓子類・パン・小麦粉・木炭(もくたん)などが常時配給品として市民に配られた。さらに、臨時のものとして澱粉(でんぷん)・豆腐(とうふ)・油揚(あぶらげ)までが配給された。十九年には、海苔(のり)・にぼし・鶏卵(けいらん)・たばこ・ちり紙・石鹸(せっけん)に至るまで配給品目は拡大されていった。
昭和17年度配給物資の例
品名配給量
1人1日 2合3勺(330g)
味噌1人1か月 200匁(750g)
醤油1人1か月 4合(720ml)
生菓子1人1か月 20銭
小児用菓子1人1か月 30銭
豆腐・油揚配給の都度連絡
砂糖1人1か月 0.5斤(300g)
マッチ1世帯1か月 小箱10個
木炭1世帯1年 9俵
(3~5人世帯で20~29畳の場合)

 こうした配給制は、細かい点で各家庭の実情にそわない場合が多く、市でも婦人会の常会で主婦たちの意見を聞いているが、苦情が続出してその対策に頭を悩ませたと伝えられている。また、市民の怒りを最も買ったのが、物資を正規の配給ルートに乗せずに横流しする悪徳業者があったことで、当時の新聞も批判記事を掲載している。
 米の不足はますます深刻になり、昭和十九年以降、米の配給は一か月に一〇日分ほどの量に減配され、不足分はいも類、豆がすなどが代用食として配給されるようになった。市民はいもや野菜、その他食料となるあらゆる物を米といっしょに炊(た)き込んだ雑炊(ぞうすい)・すいとんを常食として空腹をしのいだ。配給だけでは絶対量が不足するので、市民は統制の裏をくぐって周辺の農家へ買い出しに出かけた。配給価格の数倍もするヤミ値で買い求めたのである。敗色濃い二十年には、ついに配給量は二合一勺に減配され、しかも月に数日分は欠配となった。母親たちは子どもに食べさせるため、タンスから自分の晴れ着を取り出して僅かな米やいもと物々交換をした。こうした極限状態は敗戦後なお続くが、当時、こんな暮らしをタケノコ生活と呼んだ。