市民の戦争協力

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 物資の不足を耐えしのぶ市民は、次に資金の不足についても協力を余儀なくされた。
 日中戦争の長期化にともない、政府は莫大な戦費を調達するため、国債(こくさい)の消化と貯蓄の増強を国民に呼びかけた。太平洋戦争が始まると政府の貯蓄奨励はさらに拍車がかかった。
 昭和十六年以降、政府は国債消化を含めた貯蓄目標額を定めて道府県に割り当て、以下市町村へと下ろしていった。十七年の例では、全国二三〇億円、愛知県十六億円、豊橋市四八三五万円であった。これは市民一人当たり三三一円余になる。割当額はさらに町内会・職場・学校などへ下ろされたが、聖戦完遂(せいせんかんすい)の名のもとに半強制的であり、とくに、換金の不自由な国債の消化はどの町内会も苦しんだ。当時、銀行員の初任給が七〇~七五円、国民学校教員の場合が五〇~六〇円であったことを考えると、割当の達成はかなりの負担であった。
 なお、この貯蓄目標額は年々増え続け、豊橋の割当は、昭和十八年=四九一〇万円、十九年=七九〇〇万円、二十年(計画)=一億二〇〇〇万円であった。

国債と消化控帳 多米区有文書

 市民の資金協力は貯蓄や国債購入だけにとどまらなかった。昭和十八年、豊橋翼賛壮年団(よくさんそうねんだん)の呼びかけにより、軍用機の献納運動がおこなわれた。自由意志による献金ではあったが、断ることのできる雰囲気ではなく、町内会や職場、学校を通して戦闘機一〇機分の八六万円余が集められた。
 貯蓄や国債購入、あるいは献金が現在の生活を切り詰めての協力であったとすれば、金属類の供出は過去の蓄積からの協力であった。兵器を生産するためには原材料の鉄・銅などの金属類を確保しなければならない。海外輸送路を断たれた日本は、国民が使っている鉄・銅・アルミニウムなどの金属を回収して兵器生産に回す必要があった。初めのころは、各家庭は一戸につき一品以上として町内に通達されたが、まだゆるやかなものであった。
 しかし、昭和十六年に出された金属回収令は強制力を持っていた。十七年二月から三月にかけて豊橋全校区で一斉回収がおこなわれ、門柱・門扉(もんぴ)・手すり・橋の欄干(らんかん)・火鉢などが次々に供出された。昭和十八年には、市内各寺院のつり鐘(がね)・郵便ポスト・下水のふたに至るまでが姿を消した。翌年、市民の信仰を集めていた岩屋観音(かんのん)像も、兵器に変わっていった。
 市民の負担が重くなった昭和十八年以降、南方戦線へのあい次ぐ兵力増強は、農業労働力とともに軍需産業への労働力不足をもたらした。同年七月、政府は国家総動員法に基づく国民徴用令(ちょうようれい)を強化改正し、対象を一二歳から六〇歳までの男子に広げたが、すでに満足な男性労働者は残り少なくなっていた。
 昭和十八年九月、政府は未婚の女性を勤労挺身隊(きんろうていしんたい)として軍需工場へ動員する計画を立て、宣伝に努めた。女子は家庭を守るのが本務であるという当時の「家」の精神からすると大きな転換である。これを受けて翌十九年一月、豊橋でも一五歳以上二五歳未満の女性で女子勤労挺身隊が結成されて豊川海軍工廠(こうしょう)へ向かった。
 続いて同年三月、豊橋高等女学校はじめ市内の各女学校では、学校の呼びかけに応じ進学する者を除いて卒業生のほとんど全員が女子勤労挺身隊に参加した。彼女たちは学校単位に編成され、集団で軍需工場へ送り込まれていった。その後、同年八月には女子挺身隊勤労令が出され、二〇歳から四〇歳までの未婚女性は強制的に動員されることになった。さすがに家庭の主婦だけは除外されたが、家事にゆとりがあればパートタイムで働きに出るよう奨励された。終戦時、全国の女子挺身隊員総数はおよそ四七万人であった。

兵器生産に取り組む女子勤労挺身隊員
桜ヶ丘ミュージアム提供