戦時教育と学徒動員

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 日中戦争が行きづまった昭和十六年(一九四一)四月、戦時体制に即応する教育改革の一環として国民学校が発足した。そのねらいは皇国民(こうこくみん)の錬成(れんせい)、つまり、天皇に対する絶対の忠誠心(ちゅうせいしん)の植え付けと、アジア諸国民のリーダーとしてふさわしい国民の育成にあった。従来の尋常小学校・尋常高等小学校は、それぞれ国民学校初等科・高等科と改称され、教科の統合、教科書の改訂もおこなわれた。なかでも皇室中心の歴史教育、武道と体操をあわせた体錬(たいれん)科はとくに重視され、国民学校教育の中核となった。
 豊橋でも、昭和十五・十六・十七年にかけて各学校一~三人の教員が一八日間の講習を受け、学校へ帰ってから国民学校研究会を設けてその徹底をはかった。「豊橋の教育百年の歩み」の中で、当時、新川国民学校に勤務していた一教諭はこう振り返っている。
 「強い国民、強い子どもをつくれという思いから、連帯責任を問い厳しい体罰を加えたこともあった。また、粉雪(こなゆき)の降る日、クラス全員をパンツ一枚にして体から湯気(ゆげ)の出るまで駆け足をした。集合が遅い時、一時間中『別れ、集まれ』を繰り返した。音楽の時間は運動場で足踏みしながら軍歌を歌わせた。」(要約)
 宿直の夜は子どもだちとザコ寝をするのが唯一の楽しみであったと語る同教諭が、皇国民錬成の一端を担ったことに対し苦渋をにじませての回想である。
 さらに、昭和十八年一月には中等学校令が公布された。これは公私立の中学校・高等女学校・実業学校の教育を時局の進展に合わせ、先の国民学校令の延長線上におく教育改革であった。中堅国民の錬成をめざし心身の鍛錬(たんれん)や勤労を重んずる「修練」が新設されたのが特徴的である。教科をみると、中学校や高等女学校では体錬科が重視され、英語科は軽視された。
 こうした制度改革とともに、生徒たちは国防組織の一端に組み込まれていった。昭和十八年四月、戦時学徒特別錬成(れんせい)の一環として幹部生徒の錬成講習会が県下六会場でおこなわれた。豊橋では豊橋中学校を会場に豊橋中学校・豊橋第二中学校・豊橋商業学校を含めた東三河の七校が銃剣や木銃(もくじゅう)を持って参加した。
 一方、生徒たちを総力戦の一員として労働力の供給源とする動きも急であった。もともとは昭和十三年に集団勤労作業として夏休みを利用する形で始まったのであるが、しだいに食料増産の切り札として目が向けられ始めた。太平洋戦争に突入後は、学校報国(ほうこく)隊の組織を通し授業を停止してまで農村の応援に出かけた。それでもまだ、ここまでは心身錬成の場として位置づけ、かろうじて学校教育の延長と考えられる範囲内であった。しかし、時局はそれも許さなくなる。
 昭和十九年(一九四四)三月、県は政府の決定に基づいて愛知県学徒動員実施要綱を発表し、県内の各大学・高等専門学校・中等学校に通達した。市内で動員対象になったのは、三年生以上の各中等学校の生徒たちである。この動員はこれまでとは違って学校の授業は全くおこなわれず、一般工員に混じり年間を通して兵器生産に携わる勤労作業通年動員(つうねんどういん)であった。同年四月、生徒たちは学校・学年・学級・その他の様々な単位で市内外の軍需工場に配置された。なかには遠く名古屋・半田の工場に割り当てられ、教師の引率・監督のもとに家庭を離れて働く生徒たちさえいた。同年九月、第二次動員が学校に残っていた各校一・二年生に対して発令された。その多くが通勤の便を考慮して豊川の海軍工廠(こうしょう)に配置されたのが仇(あだ)となり、昭和二十年八月七日の空襲により大きな悲劇を生んだ。

豊橋中学校生徒の勤労作業

 動員されたのは中等学校の生徒だけではなかった。昭和十九年以降、国民学校の高等科児童に対する動員もひんぱんにおこなわれた。動員先や作業内容、動員の時期や期間は各校まちまちであるが、食料増産、開墾、兵器生産、飛行場建設の土木作業など多方面にわたっている。同年九月から翌年三月にかけては、中等学校低学年の動員と同じ指令に基づいて軍需工場への通年動員が始まった。
 昭和二十年三月、全国の学徒動員数は、中等学校一六二万人、国民学校高等科五八万七〇〇〇人に達した。決戦体制の号令のもとに、児童・生徒の学業放棄、学校教育の破壊という大きな犠牲を払ってまで強行した学徒動員であったが、それは戦局を挽回するにはほど遠い、せっぱ詰まったあげくの策であった。