豊橋空襲

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 ないないづくしの耐乏生活も、慣れない軍需工場勤めもかいなく、国民の知らないところで戦局は本土空襲も覚悟しなければならない段階にまで悪化していた。
 昭和十九年(一九四四)一月、政府は大都市に最少限の人員を残し、それ以外の者は周辺都市に疎開(そかい)することを勧めた。豊橋市でも県の要請によって受け入れに努め、同年五月には縁故(えんこ)をたよって来た人たちを中心に三一四世帯を迎え入れた。その後も疎開転入希望者があい次いだが、それに応じきれず、縁故以外の受け入れは中断する状態になった。
 ついに昭和十九年十一月、サイパン基地を発進した米軍爆撃機B29が東京へ初めて姿をみせた。以来、空襲はしだいに本格化し、同年十一月二十三日には伊勢湾沿岸に接近したB29に対して、豊橋にも空襲警報が発令された。まだこの時には、豊橋上空にB29が飛来したわけではなかったが、空襲が間近に迫っている危機感を市民に与えた。
警報発令回数
  警報
年月  
警報発令日数警戒警報発令回数空襲警報発令回数
17年4月413
 5430
 7410
 8310
19年11月423
 12151213
20年1月23366
 220318
 324347
 420264
 525414
 616216
「豊橋地方空襲日誌」・「小浜町内会日記」より

 昭和二十年に入って大都市の空襲が激化すると、市民の危機感はいっそうつのり、南設楽(したら)や北設楽方面へ疎開先を探し始めるようになった。実際の疎開者は多くを数えなかったが、子どもを疎開させたり、家財の一部を親戚知人に届け、預かってもらう者は少なからずいた。このころになると、時に豊橋上空に一機、二機とB29の姿が見られ、警戒警報や空襲警報は日常茶飯事となった。おまけに、空襲警報が発令された時にはすでにB29が上空にさしかかっていることも珍しくなかった。市民は、夜中に空襲警報が出ても暗闇(くらやみ)の中で防空服をつけられるよう、風呂敷に包み枕元に置いて寝るのが普通になった。
 大都市を中心とした空襲は、やがて地方の中小都市へと移ってきた。木と紙の家が密集する日本では、空襲に備えて建物疎開の必要性は早くから叫ばれていたが、県が軍の要望を受けて豊橋の疎開計画を立てたのは昭和二十年の初めであった。駅前~守下町、関屋町~上伝馬町~駅前大通り、西八町~神明町と三すじの空き地をつくる計画を基に、約一〇万平方メートルの土地強制買収と家屋の取り壊しにかかったのが同年五月であった。しかし、米軍の爆撃は急で、取り壊した家屋のかたづけがすまないうちに運命の日がやってきた。
 昭和二十年六月十八日の夜中、隣の浜松が空襲を受けて燃えあがった。その二時間後、四日市が焼き払われた。こんどは豊橋の番だと市民は予感したという。
 六月十九日午前十一時十五分、志摩半島、御前崎方面から数群の米機が侵入。警戒警報が発令されたが何事もなく一時間ほどで解除。夜に入って、午後九時三十分、警戒警報に続いて空襲警報発令。ラジオは志摩半島から侵入したB29が若狭(わかさ)湾へ機雷(きらい)を投下したことを報じたが、およそ三〇分ほどで空襲警報は解除された。緊張が解け一息つきながら、いつでも飛び出せる用意だけは整えて寝床に入った市民が多かったのも無理ない状況であった。
 ほんの一時まどろんだ市民は、二十日に日が替わった夜半、突然、空襲警報を告げるサイレンで飛び起きた。ラジオは東海軍管区(ぐんかんく)の情報を繰り返していたが、その時すでに、柳生川運河方面と太陽航空(現イトーヨーカドー)から火の手があがっていた。それから二時間余の波状(はじょう)攻撃で、一三六機のB29は逃げまどう市民の頭上に焼夷弾(しょういだん)の雨を降らせた。これまで市民の義務として早くから訓練を重ねてきた防空演習は、実際の場面に際しては何の役にも立たず、市民は逃げのびるのに精一杯であった。そんな市民に対して、超低空で飛ぶB29は、燃えかかる炎に赤く染まった不気味な機体を浮かびあがらせながら、機銃掃射(そうしゃ)を加えた。
 夜明けまでに焼けるものはほとんど焼け落ち、市街地は焦土と化した。全焼・全壊家屋は全戸数の七〇%、死者六二四人、重軽傷者三四六人、被災人口は全市民の五〇%に及んだ。悪夢の一夜であったが、焼け出され、すべてを失った市民にとっての苦労は、むしろそれからであった。あり合わせの衣服をまとい、そまつな仮設住宅の暮らしはまだしも、空腹を満たすことに追われる日々が待ち構えていたのである。

空襲と市民の生活
防空ズキン
左 奥三河郷土館蔵


国民服


モンペ服
田中勝義氏蔵


灯火管制時の遮光カバー


防空演習


防空用防毒面


豊橋空襲の罹災証明書


被災地域図

豊橋市被災状況
日時被災世帯・入囗人的被害物的被害
世帯数人員死亡重傷軽傷全焼全壊半焼半壊
昭和20年
6月20日
16,00968,50262422911715,886109
豊橋市役所の資料による

 事実、恐れていた事態が生じた。空襲後一週間余を経て、新川国民学校に収容されていた被災市民の中から赤痢が発生した。真夏、水道も復旧しない状況で疲れ切った市民に抵抗力はなかった。医薬品や人手の不足もあって赤痢はまたたくまに全市に広がり、空襲をまぬがれたわずかな病院では収容しきれなかった。市はやむを得ず新川国民学校を臨時の病舎にあてた。市の懸命な防疫(ぼうえき)努力にもかかわらず、患者は七月に五五四人、八月に七五八人と増え続け、ようやく下火になったのは戦後の十月に入ってからである。