豊橋周辺では、第七十三師団が渥美郡から東三河一帯に配置されておりその司令部は国府にあった。通称を怒(いかり)部隊と呼ぶこの師団は、昭和十九年に名古屋で編成された後二十年二月、東海・北陸を管区とする第十三方面軍に所属して渥美半島地区の防衛にあたることになった。同年六月からは新城に本部を置く第五十四軍の指揮下に入り、三ヶ日の戦車旅団とともに上陸する連合軍を水際(みずぎわ)で迎え討つことになったが、装備は貧弱で実戦能力は知れていた。兵士たちの日常も、訓練というより陣地の構築に明け暮れていた。岩屋から高山射撃場一帯にかけての防衛陣地の構築作業には、多くの市民が協力出動している。
本土決戦は、男女を問わず全国民を武装させ、戦場に駆り出す。昭和二十年六月、義勇兵役法(ぎゆうへいえきほう)の実施により豊橋でも国民義勇隊が結成された。全市の義勇隊長に市長が就任、全市いっせいの結成式を六月二十日に予定した。はからずもその日に豊橋は空襲を受け、結成式は不可能になったため、被害のなかった町内でそれぞれにおこなった。また、向山台地のがけに地下室をつくり、万一の場合はそこを義勇隊の司令所とする計画も立てた。もっとも、義勇隊といっても武器はなく竹槍(たけやり)で戦わねばならない特攻(とっこう)戦法が中心であった。
二川のトーチカ
このころ、B29は空から軍部の批判や自由主義をうたうビラを盛んに撒(ま)き、日本国民の反戦・厭戦(えんせん)気分を誘っていた。それを拾った市民は額面どおりには受け取らなかったものの、追いつめられ、本土決戦がさし迫った気配を感じとり、最悪の事態を覚悟した。
降伏勧告のビラ 石田登茂次氏蔵
一方、市民の避難計画も秘密のうちに立てられていた。老人や婦女子を南設・北設方面へ退避させようというもので、校区ごとに受け入れ町村が決められた。いざ避難命令が出たならば、町内会長の指揮のもとに必要な荷物を馬車やリヤカーに積み、徒歩で新城へ行く道が予定され、集合時間やくわしい行動計画も立てられた。この秘密計画も一部で洩れ、市民の不安と動揺はかくせなかった。
豊川海軍工廠の被爆
昭和二十年(一九四五)八月七日、海軍最大の兵器工場、豊川海軍工廠(こうしょう)が爆撃された。
マリアナ基地を出発したB29爆撃機一二四機、硫黄島基地からそれを護衛するP51戦闘機四五機は、名古屋方面へ向かうと思わせて知多半島にさしかかった時、機首を突如豊川へ向けた。
午前九時二十二分、空襲警報が発令されたが、工廠内では作業を続行していた。午前十時十三分、B29の一二波による波状(はじょう)攻撃と護衛するP51の機銃掃射が開始された時、工廠内には避難(ひなん)しきれなかった多数の工員と動員学徒が残っていた。約三〇分の間に、彼らの頭上には五〇〇ポンド(二五〇キログラム)爆弾三二五六発が降り注いだ。
この爆撃により、豊川海軍工廠は徹底的に破壊され死者二五〇〇人余とその数倍を越す重軽傷者を出した。死者の中には、多くの女子挺身隊員と四六四人の動員学徒が含まれている。その中には五四人の国民学校児童もいた。終戦を一週間後に控えているというのに、多くの命が奪われたのである。