闇市と買い出し

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 昭和二十年(一九四五)八月十五日の終戦を告げる玉音放送で戦後は始まった。空襲の焼け跡の中で人々は敗戦の衝撃に打ちひしがれ、飢えと失望からの出発であった。
 豊橋市の食糧配給は、麦・雑穀・さつまいもなどが主なものであり、主食や生鮮食料品の入手はむずかしかった。配給量は一四〇〇カロリー台まで低下し、市民が焼け跡で聞いた平和国家への道は、深刻な食糧不足がもたらす飢餓(きが)からの脱出が重要な鍵を握っていた。それに加えて、戦災による工場などの破壊が生産活動を急激に低下させ、豊橋の工場操業率は空襲前の六%にまで減退した。また、海外引揚者や復員軍人による急激な人口増加も生じた。
 このような供給と需要の極度なアンバランスから、市民の生活を脅かす悪性インフレーションが発生し、その結果生み出されたのが闇市(やみいち)である。
 豊橋では昭和二十年十月ごろから、駅前通りにバラックやヨシズ張の仮店舗(かりてんぽ)、露天(ろてん)市場などを中心とした闇市が出現した。いもあめ・みかん・たばこ・包丁など生活物資が売買されていた。ここでの闇価格は、十七年に制定された統制価格と比べると異常な高騰ぶりであった。とくに、砂糖は五〇〇倍に跳ね上がり、銀シャリとして重宝された米は一二〇倍に、石けんは一〇〇倍の値段で取り引きされていた。それでも人々は生きぬくために駅前闇市へと足を向けた。
 闇市を営む露天商の資格は何の制限もなく、警察に届ければ誰でもできた。そのため、市場の混乱は著しく無法地帯と化していた。そこで、東京都を皮切りに全国の都道府県は露天商取り締まりの県条例を採択し、闇市の取り締まりや組織化を推進した。豊橋警察署も露天商組合の組織化を指導して、昭和二十一年八月十三日に「豊橋露天商組合」を成立させた。そして、混乱した秩序を回復することと駅前の美観を整えるために、闇市を駅前から神明町に移すことを決めた。
 神明町への移転は順調に進み、十二月十六日に移転は完了した。名前も「青空市場」「明朗市場」と呼び健全なイメージを市民に与えたが、その実態は必ずしも名前のとおりではなく、闇価格が横行していた。
 その後、豊橋の戦後復興計画が軌道に乗り始め、神明町の青空市場の敷地は、市内第一号の市街地公園に変身することとなった。
 そのため露天商たちは、市の斡旋(あっせん)により龍拈寺(りゅうねんじ)境内と牟呂用水上の大豊百貨店、それに接続する個人店舗に移り住んだ。一〇〇世帯を越える移転は、無事に昭和二十五年に完了し、混乱の時代の市民生活を支えた闇市は幕を閉じたのである。
 また、闇市とは別にさつまいもの収穫期になると、豊橋周辺の各農家には一日五〇人から六〇人に及ぶ買い出し客が訪れた。そのため、豊橋駅は関西方面からの買い出し客も加えて大混雑し、一日平均三五〇〇人に及ぶ乗降客でごったがえした。とくに、午後二時五六分発の大阪行きと午後四時三四分発の京都行きの列車は、豊橋の「地獄列車」と呼ばれるほどであった。
 一人一〇貫(三七・五キログラム)を越えるさつまいもをリュックに背負い、列車が駅に着くと同時に駅のホームに待機していた人々が殺到する姿は、まさしく地獄図であった。列車の窓や鎧戸(よろいど)もたたき壊され、ガラスの代わりにベニヤ板がはめ込まれるありさまであった。列車が発車したあと、乗れなかった者は駅待合室で夜を明かし、その数は毎晩数百人に及んだと言われる。待合室は、さつまいもと人で埋めつくされた。

さつまいもの買い出しで混雑する豊橋駅 中部日本新聞 昭和22.11.20

 さつまいもの季節が終わると、麦、じゃがいもと、買い出し客はあとを絶つことがなかった。また、渥美半島にも、空き缶を抱えて魚を求める「カンカラ部隊」が殺到した。