街にあふれる失業者

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 敗戦以来、豊橋の街には多くの復員軍人や失業者があふれていた。昭和二十一年(一九四六)における市内求職者数は六七〇〇人を越えたが、就労の機会を与えられたのは四〇%余に過ぎなかった。さらに、インフレの進行は給料生活者の購買力をいちじるしく弱め、二十三年に入ると経済活動は全国的に低下した。このため、せっかく復興の途についた市内の零細(れいさい)企業も閉鎖や倒産に追い込まれ、市内工場数は前年度の四割弱にまで激減した。この時期、豊橋市の失業者は一万五〇〇〇人以上となり、まさに危機的な状況に陥った。
 豊橋市は、市議会に「失業対策委員会」を設置し、市費による土木事業や道路改修工事などを積極的に進め、失業者への就労の道をつくるのに努力した。また県費対策費と市失業対策費を財源として失業者救済に尽力したが、一六〇人程度しか就労の場を与えることができなかった。失業対策は焼け石に水のごとくであり、零細企業の多い豊橋市の失業者問題は、暗礁に乗りあげてしまった。
 
仮設住宅の建設
 昭和二十年九月、東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣は戦災による焼失住宅二三〇万戸に対し、三〇万戸の簡易住宅建設を閣議決定した。それを受けて、愛知県では県直営の簡易斡旋住宅の建設に取り組んだ。この仮設住宅は呉服町の豊川堂書店と中川洋服店にモデルハウスがつくられ、一般市民の応募という形で進められた。しかし、分譲価格は三四〇〇円、木材のみを希望する場合は一六五〇円、資材全部ならば二八〇〇円と高額なため、予想に反して市民からの希望は少なかった。
 そこで、県では利息が安く返済期聞か長い融資を実施して、人々の資金不足を解消しようとした。この融資は多くの豊橋市民に利用され、豊橋の住宅復興の足がかりをつくったのである。

簡易斡旋住宅