高師・天伯原の開拓

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 県下最大の開拓地として脚光を浴びたのが広大な旧軍用地であった高師原・天伯原である。食糧増産と失業対策の二つの目的から、国の緊急開拓事業として県と協力しながら進められた。
 第一次就農者七〇〇余人は、大清水演習厰舎(しょうしゃ)五棟に分宿して約一か月の共同生活と開拓技能訓練を受けた。そして、昭和二十年(一九四五)十一月六日、鍬入(くわいれ)式がおこなわれ、開拓が着手された。
 この開拓農民は、戦災者、海外引揚者、復員者、失業者などを対象に、自己資金三〇〇〇円と家族労働があることを条件に一般応募という形で入植した人々である。十二月五日、一〇戸単位で耕作区を決定し、各戸一~二ヘクタールの土地仮配分を受けて開拓に従事した。
 翌年の五月には、この地域の入植者を対象に開拓指導所が浜道町に開設された。九月には開拓実験農場も併設されて、開拓者に対する指導体制も整備されていった。
 一方、一般応募の入植者とは別に、高師原では市街地に隣接していたため、戦時中からすでに農耕勤労隊による開墾がおこなわれており、本土防衛部隊や豊橋陸軍予備士官学校の関係者などが耕地の払い下げを受けていた。彼らは開墾用具や軍馬などをもっており、他の入植者よりも条件が恵まれていた。また、大清水演習厰舎へ入居して訓練を受けることもなかった。
 一般入植者の中には、北設楽郡の山間地である豊根村、富山村からの分村者二二〇世帯も含まれており、母村の出身別に一組(二〇戸)となって相互扶助と連帯を強めながら開拓に従事した。

入植当時の大清水地区 豊橋市開拓農協提供