開拓農民の苦闘

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 「鬼の天伯、地獄の高師、流す涙が梅田川」と唄われた演習地も開拓の鍬が入り、農地へと変容していった。しかし、この軍用地はもともと小松や灌木(かんぼく)しか生えない荒れ地であり、農地には適していなかった。土壌は強い酸性で有機質に欠けており、地形は丘陵地帯で水の確保がむずかしく干害の起こりやすい場所であった。
 さらに、開拓の大きな障害となったのは、開墾の際の抜根(ばっこん)作業である。マツ・ツツジ・ササなどの灌木の抜根は、人力では限界があった。そこで、威力を発揮したのが旧軍隊の小型戦車や野砲牽引車(けんいんしゃ)に砕土機(さいどき)を取りつけた二〇台ほどの急造ブルドーザーであった。一台で一日五〇アールの開墾ができ、人力開墾の一五〇倍から三〇〇倍の能率をあげることができた。しかし、ブルドーザーの入れない複雑な場所では、人力に頼らなければならず、その労力は大変なものであった。
 次に、開拓農民たちが取り組まなければならなかったことが土壌の改良である。やせている畑地を肥やすためには、野草・海藻・馬糞(ばふん)・下肥(しもごえ)・石灰などを大量投入する必要があった。家畜を飼育し、その厩肥(きゅうひ)を利用するのが効果的だとわかっていても、家畜は高価で容易に手に入らなかった。入植者たちは一〇キロメートル以上離れた市街地まで荷車を引いていき、人糞尿をはじめ路上の馬糞まで集めて畑地へ運ぶ苦労を繰り返した。
 開拓農民のもう一つの闘いは飢えである。やせた土地ではいもさえも大きくならず、食糧営団の配給を受けて飢えをしのぐありさまであった。入植一年間は、一日当たり一六歳以上の男子には二合、女子には一合の米の配給が特別に考慮されたが、それも遅れがちであった。入植者たちは、じゃがいも・さつまいも・かぼちゃを主食として、米の配給があった時だけ、米にこれらを入れた雑炊(ぞうすい)などを食事としてとった。なかには、生活難のために配給米を食べずに売って生計を維持する入植者もいた。こうした極限状態の食糧事情のもとで、重さ四キログラムもある重い開墾鍬をふるって軍用地の開拓が進められたのである。
 住居事情も劣悪であった。古材を寄せ集めたバラック生活でも自分の家を持てた者は恵まれた方で、多くの入植者は軍用廠舎や神社の社務所、農家の納屋などで共同生活をして開墾地へと通った。
 昭和二十一年一月、国は開拓地用の建築用材として一万四〇〇〇戸分の木材を用意し、建築助成金も一戸当たり三〇〇〇円と増額した。一〇三八戸分の割り当てを受けた県は助成金を二〇〇〇円に減額し、その分を回して一五五五戸に割当戸数を増やす特別措置をとった。豊橋と刈谷に生産工場を指定して開拓地用セット住宅を量産し、開拓農家へ配給した。家はできても電気はなく、開拓農民はランプやバッテリーに結んだ豆電球の暗い生活を続けなければならなかった。

入植当時の開拓農家 豊橋市開拓農協提供

 生活難と過酷な重労働から、昭和二十年度の豊橋地区の離農戸数は四八八戸にのぼる。離農率は四六%と驚異的な数字を示し、入植直後の開拓の困難さを知ることができる。その後、離農する農家は減少するが、昭和二十三年入植者に対する国の条件が厳しくなると、開拓地への入植者の性格も変化し始め、地元農家の次男や三男などの進出が目立ってきた。