開拓農民の団結

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 昭和二十一年(一九四六)四月、岩西開拓団大会が開催され、開発営団豊橋事業所に対し、労働賃金の値上げ、開墾費一反当たり一〇〇〇円、生活援助費月額三〇〇円の支給などの要求を決議した。各農家とも入植以来、出費がかさんでおり、資金不足から離農をしなければならない状況に追い込まれていた。すでに豊根村からの入植者一一六世帯のうち、二六世帯が離農していた。開拓団長水上義雄は要求の早期実現を迫ったが、事業所側の回答は乏しい国庫補助金のやりくりを説明し、しばらく待ってほしいという苦しいものであった。
 岩西開拓団大会の開催が契機となって、開拓者の団結と連帯を強化する愛知県開拓者連盟結成の気運が高まった。昭和二十一年九月十六日、豊橋に県下五六か所の開拓就農者の代表が集まり、理事長に水上義雄(よしお)、専務理事に老津就農組合長の平良栄昌を選出し、愛知県開拓者連盟を発足させた。この連盟は開拓者の団結と連帯を強化して開拓の困難を打開し、健全な新農村建設をめざすものであった。
 昭和二十一年十月、県は愛知県開拓者協会を開設し開拓者連盟の活動を支援した。愛知県におけるこうした官民一体の新農村建設運動は全国へと発展し、同年十一月、第一回全国開拓者大会の開催となった。開拓農民の切実な要望はついに国を動かし、二十三年、開拓者資金融資法を実現させた。
 この間、豊橋地区の各開拓団は、GHQ(連合国総司令部)の農村民主化政策に基づき開拓農業協同組合として組織化されていった。昭和二十二年から二十三年にかけて、高師原・岩西・天伯原・栄・野依・大清水・老津・二川・高豊と九つの開拓農業協同組合が成立した。これらの農業協同組合は、それぞれ連携を保ちながら営農方針や共同出荷、共同購入、資金融資など営農基盤づくりに努力した。また、組織力を強化するため澱粉(でんぷん)工場や大根のたくあん漬(づ)け加工、製茶などの事業も組合事業として大規模に実施された。

豊橋南部地区の開拓団分布 「愛知県開拓史」より

 それとともに、各開拓集落の親睦と団結をはかるために、盆踊り大会、素人演芸会、地区対抗の野球大会やバレーボール大会などが開催された。御幸(みゆき)神社の花祭りは、岩西開拓地区に入植した人々が北設楽の郷里をしのんで催されたものである。
 このように、生活基盤が不安定であった入植者も、開拓農業協同組合を核にして、組合員相互の固いきずなのもとに力強い歩みを進めていった。