代表準備委員たちを中心に解放条件についての協議が始まり、県庁からも小作官が入って地主と小作との調停がおこなわれた。ここで決められた解放条件として、二町歩(二ヘクタール)以上の耕作者は一反(一〇アール)、二・五町歩~三町歩未満は二反、三町歩以上は三反を返上して、小作規模の小さい農家に分け与えることなどが決められた。なお、売買価格については県に一任する形をとったが、最終的には田畑込みの平均価格が一反当たり七八五円でまとまった。そして、昭和二十一年四月三日に仮協約書に調印し、翌五月八日には本協約書の調印がおこなわれた。この調印にあわせて、神野新田内の養魚場や原野など約二〇〇町歩も一〇〇万円で売買された。これにより、神野新田はすべて小作人側の神野新田農業実行組合に譲渡されたのである。
しかし、全国的にみれば、第一次農地改革は耕地や耕作権の移動を県知事の認可のみでできたため、空前の小作権の移動がおこなわれた。この地主たちによる小作地の取り上げによって、農民解放を目的とした第一次農地改革は足ぶみ状態に追い込まれた。
そこで、政府はこの打開策として、自作農創設特別措置法案と農地調整法改正案を発表し、さらに強力に農地改革の徹底を期すべく努力した。その内容は、農地の保有限度を明示し(愛知県は二町歩二反)、買収農地の決定は市町村農地委員会がおこない、買収売渡しには国が関与するというものであった。また、小作農が支払う農地代金も三〇年賦償還とすることも盛り込まれた。これらの法案は国会を通り、昭和二十一年十月に公布された。本格的な農民解放をめざす第二次農地改革の段階に移ったのである。
これを受けて、第二次農地改革を推進する執行機関としての農地委員会委員の選挙がおこなわれた。農地委員会は、地主五人、自作五人、小作一〇人と階層別の代表者によって構成された。豊橋市でも、第一回の農地委員選挙がおこなわれ、各階層から二〇人の委員が当選した。選出された委員のうち大竹藤知(とうち)が会長となった。
第一回豊橋市農地委員一覧 |
小作代表 (10人) | 田中専精 | 中村卯三郎 |
高柳一夫 | 伊藤宗太郎 | |
金子権四郎 | 倉内高平 | |
杉浦勝太郎 | 戸沢甫吉 | |
岩瀬貞治 | 河合英雄 | |
地主代表 (5人) | 大竹藤知 | 山本高太郎 |
平石 博 | 中神悦治 | |
後藤庄五郎 | ||
自作代表 (5人) | 磯部政一 | 河合 栄 |
石川彦作 | 鈴木才二 | |
岡田文一 |
「豊橋市政八十年史」より |
農地改革を進めるなかで、豊橋市は大きな二つの障害にぶつかった。一つは都市計画事業における土地買収と、農地改革による農地解放との間の競合の問題であった。
つまり、都市計画事業で、宅地造成を目的とした土地区画整理地区内に自作農を創設すれば都市計画の障害となる。とくに都市計画のなかで、道路・公園・河川など知事が買収除外地として指定した地域は、たとえ農地であっても農地解放の対象にはならなかった。しかし、小作農民は該当地域内の小作農地の解放を要求した。この問題は、最終的に農地委員が調査し、東田・福岡・下地などの耕地整理組合内の約六三〇ヘクタールの買収除外地区が決まり解決した。
二つめの問題は、小浜にあった太陽航空工業の敷地開放をめぐるものである。太陽航空工業は戦時中につくられ、五万六〇〇〇平方メートルの土地を持っていた。農地委員会は、幹線道路から一〇〇メートル以内にあるから法定通り買収除外地に入ると判断した。これに対し、南部耕地整理組合は、戦時中に強制買収された農地であるとして全面開放を要求した。この争いは県農地委員会にもち込まれたが、愛知大学長の小岩井浄などの援助があって、会社が使用していない敷地内の解放が認められる結果で決着した。
このような難問を解決しながら農地改革は進み、昭和二十三年三月末までに買収予定地の買上げをすべて完了した。その後、売渡しや所有権の移転、代金の徴収、地主への支払いなどがおこなわれ、二十五年三月に豊橋市の農地改革は完了したのである。この農地改革という歴史的な業績を残した第一回農地委員会は、昭和二十六年七月に、第二回農地委員会に業務を引き継いで解散した。
農地改革のねらいは、大地主制度をなくし、自作農を増やして農村を民主化することであった。豊橋市内の自作農は大幅に増加し、小作農は三分の一に激減している。数字で見るかぎり豊橋市の農地改革は成功したと言える。
農地改革による農民階層の比較 |
階層区分 | 改革前 | 改革後 |
地主 | 5.3% | ― |
自作 | 29.5% | 56.5% |
自作兼小作 | 20.6% | 26.2% |
小作兼自作 | 16.7% | 8.9% |
小作 | 27.9% | 8.3% |
「豊橋市政八十年史」より |