地方自治の高まり

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 市民が闇市に蟻(あり)のようにむらがり、すいとんをすすりながら耐乏生活を送り、市政が戦後の復興対策に苦悩しているころ、中央では地方の政治を根底から揺るがすような事態がおこり始めていた。
 戦前の地方自治体に対して絶対的な監督権を持っていた内務省を解体する指令が、GHQ司令官マッカーサー元帥によって出されたのである。
 昭和二十年(一九四五)十月、内務官僚が罷免(ひめん)され、治安維持法が廃止された。そして、翌年一月に軍国主義者の公職追放指令が出された。このなかには三四〇人の内務省の官僚が含まれていた。
 公職追放の波は中央から地方に押し寄せ、豊橋市でも、在郷軍人会、大政翼賛会、右翼団体にかかわっていた三五〇余の人たちが追放された。戦争末期に豊橋市長となった元陸軍少将水野保(たもつ)も公職追放を受け、市政から去っていった。これら一連の公職追放の波は市民に大きな衝撃を与えたが、地方政治の新しい胎動の原動力となった。
 水野市長が辞任した後、市会は後任市長を選ぶために全員協議会を開いた。それと同時に、市政に関心を持つ社会党員一八〇人で組織した豊橋市政革新連盟準備会が、市会には後任市長の推薦(すいせん)資格はないとの理由を掲げ、公会堂で市政糾弾市民大会を開催した。市会の市長選考を阻止しようと街頭に出て市民に訴える運動を繰りひろげた。しかし、この戦術は功を奏さず、結局、市会の選考委員が推薦した県会議員横田忍(しのぶ)が十四代市長に就任した。昭和二十一年三月二十九日のことであった。
 横田忍は、県議会議員当選二回、中外工業、豊橋住宅の各社長や相談役を務め、最後の官選市長として戦後の復興や公選市長実現への橋渡し、愛知大学の創設などに尽力した。
 昭和二十二年四月、民主化の一翼をになうものとして地方自治法が制定された。地方分権と自治機能、住民権利を強調した内容の法律である。
 この年の四月は、第一回統一地方選挙と衆議院議員選挙(第二十三回総選挙)がおこなわれ、民主化への第一歩がしるされる選挙の月となった。市民の選挙への関心は高かった。とりわけ、参政権の与えられた婦人の関心は高まるばかりであった。
 四月選挙のトップをきったのが首長選挙である。愛知県知事には前知事であった青柳(あおやぎ)秀夫が選ばれ、公選による最初の知事となった。豊橋市長選挙では、大竹藤知(とうち)が前市長横田忍を破り、初代公選市長に当選した。大竹市長は、若くして地方政界に出て、三六歳で渥美郡高師村村長を務めた。その後、県議会議員、市議会・県議会議長を歴任していた。大竹市長は就任に際し、市政の民主化と戦災復興を願う市民の負託にこたえる決意を述べた。

中部日本新聞 昭和22.4

 また、首長選挙の後、四月二十五日におこなわれた衆議院議員選挙では、保守地盤といわれてきたこの五区で、社会党の林大作(だいさく)が当選を果たし、自由党の青木孝義、民主党の八木一郎と共に議席を得た。
 そして、続いておこなわれた四月三十日の県議会と市議会の議員選挙では、投票率八八・五%と驚異的な数字を記録した。これは市民の参政権に対する自覚と新しい政治への期待の表れである。県議会議員には、片山理(おさむ)、河合陸郎(ろくろう)、藤井塼溪(せんけい)の三人が当選した。市議会議員の当選者は、定数三六人のうち新人が二八人をしめ、四〇歳代が一九人、五〇歳以上が一六人と市政会の構成に若さがよみがえってきた。なかでも、豊橋労働組合協議会から立候補した鈴木豊三郎(とよさぶろう)や豊橋教員組合委員長山口浩英らは、革新系の議員として初当選を果たした。
 その後、憲法と地方自治法によって保障された地方分権が崩れる傾向が、昭和二十七年(一九五二)ごろから出始め、地方自治における議会の権限を縮小する動きが自治庁を中心に画策された。県議会や市議会は激しい反対運動を展開して二度廃案に持ち込んだが、その努力もむなしく、昭和三十一年に地方自治法改正案が国会を通過し、中央集権化への動きが強まった。
 
豊橋民衆駅の誕生
 一日四万人の乗降客を持つ豊橋駅は、戦災で焼失して以来、バラックの仮駅舎であった。そこで、豊橋市長の大竹藤知や商工会議所会頭の神野(かみの)太郎らが中心となって豊橋駅復興期成同盟会が結成された。
 昭和二十四年二月、総工費の七〇%を地元側で負担し、残りを運輸省が持つという全国でも異例な民衆駅の建設が承認された。そして、二十五年三月に木造二階建ての豊橋民衆駅は完成した。民間施設として理髪店・果物店・食堂などが設けられ、階上に市民出資の百貨店がつくられた。
 この立派な駅は、開けゆく豊橋の玄関口として威容を誇り、二十八年の浜松・名古屋間の電化完成とともに、「特急はと」が豊橋駅に停車することとなった。

豊橋民衆駅