多くの国民学校では、教科書やノート、鉛筆などの学習用具が不足し、机や腰かけもないところも多かった。そこで、家にリンゴ箱のある者は学校へ持ち込んで使い、箱のない者は腹ばいになって授業を受けた。当分の間、食糧不足のため弁当を持ってくることもできないので午前中だけの半日授業が続いた。
豊橋市は、まず教室の確保に全力を注ぎ、焼失した教室の代わりに旧軍施設を借用した。もともとが兵舎であったので机や腰かけは供給できた。教室はできても、教育の目標が終戦とともに混沌とした状態であった。昭和二十年(一九四五)九月に文部省から平和国家の建設という通達が出されたが、教師たちの混迷は深まるばかりであった。
GHQは、軍国主義教育の撤廃と民主教育の推進のために、昭和二十年十月から十二月にかけて四つの教育指令を矢つぎばやに出した。第一の指令は、軍事教育の色彩の強い教科書の改訂である。県教育会豊橋支部では文部省の指導のもとに、独自の検討を加えて教科書の修正をした。教科書の記述に軍国主義に関係する部分があれば、その部分を墨(すみ)で消すとか、ページ全体をのり付けしてしまうという方法をとった。
墨塗りの教科書 牛川小学校蔵
第二の指令は、教育者としての適格審査である。かつて軍国主義者あるいは超国家主義者として活動した教育者の追放を要求した。また、復員者についても審査が厳重で、職業軍人ではなかったという証明ができないうちは教壇に立つことが許されなかった。
第三の指令は、天皇を神とする旧来の思想を打破し国家神道を教育の場から追放することである。そこで、市内の各国民学校では御真影(ごしんえい)を奉還し、奉安殿(ほうあんでん)の撤去作業がおこなわれた。
第四の指令は、封建的な道徳思想を教えた修身、世界に君臨する国家として意識づけた歴史、地理の教育を禁止した。これによって、地理・歴史の授業はもちろんのこと、修身の授業も教育現場から姿を消した。
このように戦前の教育が否定されるなかで、ジョージ・D・ストッタード博士を団長とする教育使節団が来日した。使節団は一か月にわたって全国の学校の教育事情と教育制度を調査し、報告書にまとめてGHQに提出した。この教育使節団の報告書は、日本の新しい民主教育の大きな指針となり、教育基本法の制定や学校教育法にその趣旨が生かされている。
この中で特筆されるのは、義務教育年限が延びて、六・三制教育が誕生したことである。つまり、従来の高等科が廃止され、新制中学校が設けられた。それまで中学校や女学校に入学できたのは、入学試験に合格した一部の子供に限られていた。この学制の改革は、教育の機会均等を小学校から中学校にまで広げた画期的なものであった。
もう一つの大きな改革は、男女共学の実施である。これは、それまでの男女の差別をなくすことにつながり、教育の男女均等を実現する基礎となった。
六・三制の発足で、地方自治体は頭痛の種を抱えることになった。中学校は独立校舎にするという閣議決定がありながら、国では予算措置がまったくおこなわれていなかった。豊橋市では焼けた小学校を再建することもできない状態であり、中学校の建設など手の出しようがなかった。
しかし、新制中学校は昭和二十二年(一九四七)四月一日に発足させなければならない。そこで、豊橋市は臨時の措置として、小学校の校舎の一部や工場、兵舎、青年学校などを借りて生徒を収容した。
昭和二十二年四月に創立された豊橋市内の新制中学校は、旧豊橋国民学校単独高等科の跡地にできた中部第一中学校(中部中学校)や下地小学校の校舎を借用した北部第一中学校(北部中学校)など一〇校であった。これらの新制中学校の生徒は、各小学校や分教場などに分散して授業を受けたものが多かった。また、この時にできた中部第二中学校(豊城中学校)は、翌年の一月に豊橋市立女子商業学校から旧歩兵第十八聯隊(れんたい)兵舎へと移転している。
その後、昭和二十三年に市内の中学校の統廃合がなされ、現在の中学校の名前に変更された。
豊橋市内新制中学校 昭和22年4月 |
中学校名 | 開校場所 | 23年度変更校名 |
中部第一中学校 | 国民学校高等科 | 中部中学校 |
中部第二中学校 | 女子商業借用 | 豊城中学校 |
東部中学校 | 東田教場他 | 青陵中学校 |
北部第一中学校 | 下地小学校借用 | 北部中学校 |
北部第二中学校 | 牛川教場他 | 青陵中学校 |
西部第一中学校 | 羽根井小学校借用 | 羽田中学校 |
西部第二中学校 | 牟呂小北校舎他 | 牟呂中学校 |
西部第三中学校 | 吉田方小学校他 | 吉田方中学校 |
南部第一中学校 | 福岡教場他 | 南部中学校 |
南部第二中学校 | 植田教場他 | 南部中学校 |
「豊橋市政八十年史」より |
そして、昭和二十四年に南部中学校から南稜中学校が分かれ、二十五年に青陵中学校から豊岡中学校が分かれてそれぞれ独立した。豊岡中学校は田尻(たじり)の八幡神社の境内につくられたが、鎮守(ちんじゅ)の森を中学校とした例は全国でもまれなことであった。
豊橋市周辺の渥美郡や八名郡の町村でも、新制中学校の発足は財政を圧迫した。渥美郡高豊村では青年学校の施設と建物を転用することを決めたが、これだけでは不足するため、四教室を新築し、二教室を改造した。渡り廊下や便所なども含めると、その費用はおよそ一七三万円もかかった。村の人々もかりだされ、のベ一一〇〇人が労働奉仕をおこなった。
このように難産の中で、豊橋市内やその周辺の新制中学校はうぶ声をあげたのである。
一方、民主教育の内容については、昭和二十二年、新しい教育の柱となる学習指導要領一般編が文部省から発表された。ここでは教育のすべてが民主主義的な基礎の上に立つことを大前提に、社会の要求と児童の要求に応じる教育の推進が強調された。そのため、修身・国史・地理に替わり、新しく社会科と家庭科、自由研究が教科として登場した。
教師たちは新しい民主教育に切り換えるのに必死であった。豊橋市内の学校でも、社会科をはじめとする新教科の講習会、当用漢字かなづかいやローマ字講習会などを開催し、新しい教育の息吹を吸収しようと懸命な努力をした。昭和二十二年九月には、豊橋市内の教師の意識改革を目的とした再教育講習会が、羽根井小学校を会場に一週間にわたっておこなわれている。混迷のなかで、新しい教育を模索する教師の姿がそこにはあった。
食糧不足の時代であり、だれもが育ちざかりの子供たちの栄養不足を心配した。豊橋市は昭和二十一年に週一回のみそ汁給食を実施した。翌年、GHQから脱脂粉乳が放出され、週二回のミルク給食がおこなわれるようになり、チョコレートや缶詰などのララ物資もたまには子供たちの口に入るようになった。そして、二十六年二月には待望の小学校の完全給食が実施された。週五回、パン・ミルク・おかずの給食は、一食につき児童一人当たり六〇〇カロリーの栄養が保たれておりその効果は歴然としていた。
愛知大学の設立
昭和二十一年十一月、豊橋陸軍第一予備士官学校の跡地に愛知大学が創設された。京城帝国大学、台北帝国大学、中国の東亜同文書院など海外で活躍していた大学教授を中心に設立準備が進められ、初代学長に前慶応大学塾長の林毅陸(きろく)が就任した。横田忍市長は、軍都にかわる新しい街づくりを模索していた時であり、豊橋の活性化のためにと全面的な援助をおこなった。
豊橋市にとっては初めての大学であり、市民もこれを喜んで迎えた。愛知大学の設立は、豊橋市にとって軍都から文化都市へと移り変わる象徴的なできごとであった。
現在でも、愛知大学は中国との関係が深く、大学発行の「中日大辞典」は中国文化や言語研究の必携の書となっている。
愛知大学正門