市民文化の復活

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 政治・経済・社会の民主化が急激に進むなかで、戦中の抑圧から解放された文芸活動も息を吹き返した。
 豊橋でも、戦後の荒廃ですさんだ心に潤いを求め、文学・音楽・絵画などの各分野で愛好者グループの集いがみられた。復活のトップを切ったのは、昭和二十一年(一九四六)一月に創刊した総合誌「白樺(しらかば)」「合歓(ねむ)」の二誌であった。両誌とも小説・詩・短歌・俳句・随筆など多様な内容を盛り込み、地元文学愛好者の欲求を満たすとともに、育てる役割も果たした。衣食住さえままならない時代ではあったが、文化の芽は確実に開いていったのである。やがて短歌の専門誌が創刊され俳句の句会が催されるなど、戦後豊橋の文学は短詩型文学を中心に活動の輪が広がっていく。
 こうした流れのなかで、豊橋の現代詩活動の大きな弾みになったのが、独自の叙情精神と詩風により中央文壇で活躍していた丸山薫(かおる)の豊橋帰郷である。昭和二十四年十一月、彼の指導を受けて詩誌「角笛(つのぶえ)」が創刊された。その後、同誌は豊橋だけでなく全国からの同人も加えるほどの勢いをみせた。
 さらに、昭和二十六年には詩誌「青い花」が創刊された。その創刊に力を貸したのも、創作のかたわら、二十四年に愛知大学の客員講師となった丸山薫である。「青い花」に収録された三〇〇余編の詩・評論は、地域を越え日本現代詩に大きな足跡を残した。
 一方、美術面では日本画の中村正義(まさよし)がめきめきと頭角を現して豊橋の美術界に波紋を広げた。彼は昭和二十一年、二二歳の若さで日展に出品し初入選をはたして以後、二十五年には出品作「谿泉(けいせん)」が特選となり一躍脚光を浴びた。

中村正義「谿泉」 豊橋市美術博物館蔵

 正義の成功は、地域若手の画家を刺激し、意欲をかきたてた。中央の公募展への出品もあい次ぎ、東三河の日本画隆盛をもたらした。また、彼は子どもから大人までを対象に絵画指導をする豊橋中日美術教室の開設に尽力し、東三河美術の振興にも大いに貢献した。
 中村正義はその後、日展を脱退し権威否定をベースに既成の枠を越えて自由な創作活動に専念した。
 戦後豊橋の文化を語る時、神野(かみの)太郎の功績も忘れられない。彼は経済人であると同時に文学を愛し音楽を愛する人でもあった。昭和二十一年二月、彼は戦禍(せんか)にただれた郷土に文化の花を咲かそうと、「一坪の花園をつくろう」をキャッチフレーズに有志を集め、豊橋文化協会を設立した。
 文化協会が最初におこなったのがレコードコンサートである。公会堂横の市立図書館の三階の窓からリストの「レ・プレリュード」が廃墟の町に流れた。市民は虚脱感のなかに文化の香りを感じ取ったのである。
 続いて三月、美術と写真の作品を展示した総合美術展を公会堂で開催した。五月、成長した文化協会は、タブロイド版四頁の機関紙「豊橋文化」を創刊するまでになった。紙もない時代のこと、印刷所探しも難しく岡谷市の印刷所に発注して発刊にこぎつけた。

「豊橋文化」創刊号
豊橋文化協会蔵

 豊橋文化協会の活動は、年を追って市民の間に根をおろしていった。著名人を招いて開いた新日本文化講座は、新しい政治や文化の息吹を吹き込んだだけでなく、生活に密着したテーマのものもあって好評を得た。また、演劇や舞踊、音楽会、それに各種美術展は多くの市民の芸術的欲求を満たした。昭和二十五年、文化協会は豊橋文化賞を制定し、文化功労のあった人々を表彰することとした。第一回受賞者には郷土史への造詣(ぞうけい)が深く、かつ市政にも大きく貢献した元市長の大口喜六が選ばれた。また、二十八年には中村正義、二十九年には丸山薫が選ばれた。
 また、文協活動とは別に、昭和三十年には愛知大学教授など大学の有志が世話役になり、未刊国文資料刊行会が設立された。この会は、現在も国内はもとより全世界の主要大学へ貴重な書物を送り続けている。