朝鮮戦争と特需

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 戦災によって壊滅的な打撃を受けた日本の経済は、平和の到来とともに復興への道を歩み始めたが、それは平坦なものではなかった。昭和二十四年(一九四九)のドッジラインの強行は金づまり不況をもたらし、市民生活を脅(おびや)かした。
 豊橋市では、税収が落ち込み、中小企業の倒産、閉鎖が続出した。操業を続けた企業でも、労働者への賃金の遅配は一般化している状況であった。失業した人たちは職を求めてさまよった。職業安定所では求職者の二割程度しか斡旋(あっせん)できない状態が続いた。
 このような経済情勢のもとで昭和二十五年(一九五〇)六月、朝鮮戦争が北緯三八度線で勃発した。日本は国連軍の出動部隊の基地となった。軍需物資を中心とする特需(とくじゅ)は、低迷していた日本経済に活気を与え、とくに大企業はその恩恵を受けた。中小企業が多い豊橋でも特需景気の影響を少しずつ受け、工場操業率が四七%増となり、立ち直りの兆しを見せてきた。そのなかでも、機械・金属工業の立ち直りは顕著であった。
 豊橋商工会議所は戦争特需にわくこの年、産業の振興を円滑にはかるために、工業委員会や金融委員会、貿易委員会などの委員会活動を活発に繰り広げた。翌二十六年には、将来の豊橋経済界を担う青年経済人を結集して豊橋青年会議所を設立した。また、戦後の豊橋の新産業としてめざましく躍進した菓子業界は「豊橋菓子祭り」を企画し、販路の拡大をはかった。
 このように、豊橋の経済界も徐々にではあるが、活気を取り戻しつつあった。しかし、昭和二十六年七月、朝鮮半島での戦いも休戦の気運が高まり、開城で休戦会談が開かれた。この和平への動きのなかで繊維相場は大暴落し、豊橋の中心産業である紡績工業の痛手は大きかった。企業は合理化や製品の品質向上に努め、商工会議所は商品見本市の開催やPRに懸命の努力を払った。また、二十七年には、中小企業の金融難打開のために、商工会議所を中心に豊橋商工信用組合を設立した。
 昭和二十八年(一九五三)七月、ついに板門店で休戦協定が調印され、三年間にわたる朝鮮戦争は終わりを告げた。この休戦協定調印にともない、不況は繊維工業だけにとどまらず、鉄鋼や機械工業にも及んだ。大企業は政府の援助のもとに生産規模を拡大していったが、中小企業は大企業に圧倒され、あい次いで倒産に追い込まれた。豊橋の有力企業のなかにも、大企業の傘下(さんか)に入ることによって経営の立て直しをはかるものもあった。