伸び悩む中小企業

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 戦前「糸の町」として全国的に有名であった豊橋の製糸業は、軍需工場への転換や空襲によって壊滅状態に追いこまれており、玉糸関係の八工場と器械製糸の五工場を残すだけとなった。戦後、製糸業に替わって台頭してきたのが食料品と紡績・紡織業、木材工業である。食料品工業は、地元のさつまいもを原料にした飴(あめ)菓子やゼリーなどの工場が飛躍的に増加した。木材工業の成長は、都市の復興とともに木材需要が急激に増大したためであり、奥三河だけでなく、遠く岐阜・三重・北陸・四国などから原木を買いつけて製材した。
 このように、新しい工業を核に復興のきざしは確かな足音で近づいてきた。しかし、昭和二十九年(一九五四)の業種別工場数からも明らかなように、豊橋の工業は戦前の製糸業中心の構造から脱皮したが、依然として軽工業が中心であり、産業構造の面での進展はみられなかった。

豊橋市内の業種別工場数 昭和29年

 もう一つの課題は、経営の小規模なことである。工業生産額の八〇%を占めていた繊維・食料・木材工業はそのほとんどが零細(れいさい)企業であり、従業員千人以上の大規模経営は、豊橋紡績株式会社と大日本紡績株式会社の二つの工場だけであった。豊橋の工場のうち、九五%が従業員二九人以下の小工場であり、家族労働を中心とした家内工業が約半分を占めていた。この零細な経営規模は、当然のごとく生産性の低さをもたらし、工場従事者の賃金もきわめて低い状況におかれていた。昭和二十九年における豊橋の月額平均賃金は八九一四円であり、愛知県の月額平均賃金一万二七〇三円と比べるとその差はいちじるしかった。
 このように、軽工業中心の構造と経営の零細化という経済基盤の弱さから、好景気の時期はある程度の収益をあげることができても、いったん不景気の嵐が吹き荒れると真っ先に倒産の憂(う)き目にあわなければならなかった。そこで、市としても対応するため、二十六年に豊橋市中小産業融資準備預金制度を設けるなど、融資を受けにくい中小企業に手をさしのべている。
県内都市別製造業出荷額
都市名1人当たりの出荷額
名古屋119万円
豊橋84万円
岡崎139万円
一宮118万円
半田157万円
春日井166万円
豊川77万円
挙母276万円
碧南426万円
昭和29年「愛知県統計書」より