昭和二十年十二月、豊橋駅前を中心とした環状式道路網と放射線状道路網の建設が本格的に着手された。駅前大通りは幅五〇メートルで延長九五〇メートル、八町通りは幅四〇メートルで延長二三七メートルで計画された。とくに駅前大通りは、実施困難となり断念した戦前の構想を、さらに発展させた全国中小都市のなかでもまれにみる思い切った計画街路であった。
その後の財政緊縮政策により、復興計画は縮小され昭和二十五年を初年度とする「再検討五か年計画」が立てられた。この復興計画事業は、駅前から広小路にかけての市街地中央部に重点が置かれた。建物の移転や道路・公園づくりなどの総事業費は四億七〇〇〇万円であった。市民も各町の発展会を一つにまとめて「豊橋発展連盟」をつくり、街路の舗装や街路樹の植樹、街灯の設置など道路維持費を自分たちの手でまかなうために月掛けを始め、市からの助成を受けながら復興計画の進展に協力した。
街路は砂利(じゃり)敷であり、戦災復興事業として舗装は認められなかったが、昭和二十五年の第五回国民体育大会の開催を契機として、豊橋市は急きょ舗装工事を戦災復興事業費の枠外で実施した。しかし、歩道の舗装はすべて地元の人々の負担であり、発展連盟を中核とする市民の「町づくり」でおこなわれた。
街路樹が戦後市内で初めて植えられたのは昭和二十四年である。大橋通り・札木通り・呉服町通りといった主要な通りに植えられた。その後、駅前大通りや八町通りに、いちょうと灌木が植えられた。また、二十九年の豊橋産業大博覧会を記念して、駅前大通りや神明町・大手通り・中世古町などに記念植樹がおこなわれ、主要街路の景観は一変した。
戦災復興公園事業として進められてきた豊橋公園は旧陸軍歩兵第十八聯隊の兵舎と練兵(れんぺい)場の跡地につくられた。この公園内には昭和二十三年に豊橋球場と児童遊園地がつくられ、翌年には陸上競技場や庭球コートなども完成し、総合運動公園として生まれ変わった。
豊橋産業文化大博覧会
復興と伸展を表現した高さ二〇メートルのテーマ塔のもとに、昭和二十九年三月二十日、吉田城址を会場に開幕した。会期は五月十日までの五〇日間であった。
再建された吉田城隅櫓(すみやぐら)では、江戸時代の鳥瞰(ちょうかん)図が展示され、たばこ館では五〇〇万本の豊橋博記念煙草(たばこ)「光」が一箱三〇円で売り出された。また、豊橋の産物を紹介する蚕糸(さんし)館・繊維館・製材木工機械館、さらに工業化を促進する全国物産館・躍進愛知館などがたち並び、人々の目をひきつけるものでいっぱいであった。子供向きに子供遊園地や動物園、児童科学館などもあり、家族づれでも楽しめる企画であった。
入場者は連日二万人を突破し横浜博を越える一一六万人という全国有数の記録を打ち立てて幕を閉じた。
豊橋博の入場券 佐溝力氏蔵