豊川放水路の完成

354 ~ 356 / 383ページ
 豊川は、水源が多雨地域であり、しかも流路が短く勾配が急なため、昔から洪水が絶え間なくおこっていた。
 流域の人々は、自然堤防の高いところに村々をつくり、石垣や土盛で屋敷を囲んだり、霞堤(かすみづつみ・かすみてい)をつくって水害の被害を逃れる工夫をしてきた。
 しかし、このような努力にもかかわらず、明治三十七年(一九〇四)七月の台風による豊川の洪水は大きな被害をもたらし、悲惨な結果を招いた。昭和十年(一九三五)、衆議院議員であった大口喜六(おおぐちきろく)は、豊川のたび重なる水害をなくすために、「豊川改修ニ関スル促進建議書」を帝国議会に提出して可決された。当初の計画は、行明(ぎょうめい)(豊川市)から東海道線までの四・五キロメートルの間に、幅四〇〇メートルの放水路を開くものであった。
 ところが、費用がかさむことを理由に大蔵省が難色を示したため、幅を一二五メートルに狭めるとともに、流路を変更して江川の河道を利用し、前芝町で三河湾に注ぐようにした。昭和十三年、この豊川改修工事は建設省の手によって着工されたが、日中戦争によって妨げられ中止に至ってしまった。
 戦後しばらくの間、豊川改修工事は政府の財政悪化や放水路の開削反対運動の高まりで棚上げにされていたが、特定地域の指定の動きなどにより再燃し始めた。昭和二十四年に入ると、買収済み用地の離作補償問題などもからんで、工事反対派は活発な反対運動を展開した。彼らは放水路計画の白紙撤回を求め、豊川改修を中心に再検討することを強硬に主張した。
 これに対し、豊川工事事務所は放水路の具体的計画を示してその必要性を説いた。豊橋市としても事態を重視し、改修委員会を通じて反対派の説得を続け、二十八年になって円満解決のめどがたった。排水を良くするために、排水機三台を国が設置して県が管理すること、立ち退きしなければならない行明地区の十二戸の土地補償は国でおこなうこと、という内容で合意した。二十九年に、地元住民と関係当局との間で覚書が交換され、未買収地や離作料などの再補償がおこなわれてようやく解決した。
 三十年から江川上流部の工事は始まったが大きな壁にぶつかってしまった。サンドポンプによる排水が悪影響を及ぼし、河口にある前芝の海苔(のり)の成長を阻害しているとの陳情であった。そこで、海苔の成育期は工事を中止することとなった。こうした難問を抱えながらも、三十三年に松原用水サイホンと両岸用排水路を完成させ、翌年には本格的な上流部の掘削築堤(くっさくちくてい)工事にとりかかった。

豊川放水路

 昭和三十四年九月二十六日、愛知県に惨劇をもたらした伊勢湾台風が襲来した。この日の三河山間部における雨量は二〇〇ミリ前後となり、豊川の出水量は予想をはるかに越えて大きな被害をもたらした。
 そこで治水対策上計画変更を迫られ、昭和三十五年度(一九六〇)から治水特別会計が制定されて五か年計画が立てられた。これにより、豊川放水路は四十年出水期までに完成させ、通水できるように計画変更された。
 放水路の開削は、昭和三十八年度には大半を終了して放水路の扇の要(かなめ)ともなる分流堰(ぜき)工事に着手し、翌三十九年に完成した。また、橋梁(きょうりょう)も次々と架設された。そして、昭和四十年七月十三日、多くの人々が見守るなかで通水式を終え、豊川放水路は完成した。総事業費四七億八〇〇〇万円を投じ、多くの歳月をかけた大プロジェクトは幾多の困難を克服して終了した。この工事終了とともに、豊川右岸の霞堤も大村・当古・三上などで締め切られた。
 豊川放水路の完成から今日まで、目だった豊川の洪水被害は出ていない。放水路の完成は、豊川流域の大多数の人々の苦労を激減させたのである。