こうした状況を解決するため、県は戦前に計画されていた農林省の大規模開墾計画(豊川導水計画)の早期実現の検討を始め、国に実施の要請をおこなった。地元でも、豊橋市が隣接の市町村や県地方事務所と一体となって、豊川農業水利事業の促進運動を展開した。昭和二十二年(一九四七)一月、東三地方河開発期成同盟会が結成され、会長に豊橋市長横田忍(しのぶ)が就任した。また、豊橋市役所内に事務所を置き、ここを核にして国や県に豊川用水実現の陳情を繰り返したのである。
このような地元の熱意が功を奏し、昭和二十四年九月に豊川農業水利事業は国営事業として認可され、新城町に豊川農業水利事業所が開設された。当初計画の事業費は一八億円であり、受益面積は一万四六八ヘクタールであった。
昭和二十五年(一九五〇)十二月に広川農林大臣を迎え、豊橋中央公民館で盛大に豊川用水の起工式がおこなわれた。
豊川用水は農業用水に限定されていたが、昭和二十六年の天竜東三河総合開発特定地域の指定により、その一環に組み込まれて総合水利事業として性格を変えることとなった。かつての農業用水的性格から上水道や工業用水を含む産業経済全般の総合開発へと転換したのである。
そのため、用水量の増加が必要となり規模も拡大され、建設中の宇連ダムの堤高を九・五メートルかさ上げして五四・五メートルとした。有効貯水量も一八五五万立方メートルに増加された。幹線水路も一〇メートル高位部へ位置を変更することになった。
さらに、昭和三十三年に佐久間ダムからの分水協定も成立し、年間五〇〇〇万トンの水が佐久間ダムから豊川用水へ送られることになった。この年の十二月に貯水池の役割を果たす宇連ダムは完成した。
その三年後に、宇連川から豊川用水路に取水する大野頭首工が完成した。この水利事業は愛知用水を手がけた愛知用水公団に引き継がれた。その後、東西幹線水路などの工事が急ピッチで進み、着工以来一九年めの四十三年に完成した。総工費四八八億円を費やした豊川用水は、水不足に悩んできた人々に新しい農業への挑戦と勇気を与えた。
豊川用水の受益地域
「豊橋市政八十年史」より
かつて渥美半島を苦しめてきた干害による被害も豊川用水によって解消され、米の生産量も飛躍的に増えた。豊橋周辺の農家では湿田(しつでん)から乾田(かんでん)への転換がおこなわれ、稲の種苗も銀河・トワダ・農林十七号などの早植のものへと変わっていった。さらに、豊川用水の恩恵を受ける農業地域では、メロン・スイカ・電照菊などの施設園芸が急激に増え、土地生産性は大きく伸びた。また、畑作の露地(ろじ)栽培でも豊川用水によって適地適作の幅が広がり、キャベツ・ハクサイ・ダイコン・トマトなど作付品種が多岐にわたり年間を通して作られるようになった。
豊橋市における昭和三十五年と四十五年の農業粗収入を比較すると、米九一%、野菜二四二%、畜産三一一%と驚異的な伸び率を示している。これらの増加は技術革新もあるが、豊川用水による効果といっても過言ではない。東三河のいたるところでスプリンクラーが水しぶきをあげている光景はそれを裏づけている。
また、この豊川用水は、六〇万人を越える東三河の人々の生活用水、三河港を中心とする臨海工業地域の工業用水として、重要なはたらきを期待されている。
豊川用水東部幹線 豊川総合用水土地改良区提供
近藤寿市郎の豊川用水構想
渥美出身の近藤寿市郎(じゅいちろう)は、水不足に悩む農民の姿が脳裏に焼きつき、対応策がつねに意識の底にあった。豊川の利用をと幾たびか考えたが、すでに牟呂(むろ)用水や松原(まつばら)用水ができており、新しく水源を豊川に求めることは無理であった。
大正十年(一九二一)、寿市郎はジャワ島の水利事業を視察して新たな構想が浮かんだ。鳳来寺(ほうらいじ)山付近の峡谷に大貯水池を造り、そこから導水すれば渥美の水不足は解消できるというものであった。しかし、この構想は当時の県会で一笑に付されてしまった。
彼は屈しなかった。昭和二年(一九二七)の県会で再び用水の必要性を力説したおり、農林省の大規模開墾事業調査が進むなかでクローズアップされ、昭和五年に農林省が発表した大規模開墾計画に盛り込まれた。後の豊川用水計画の基礎ができあがったのである。
県会議員から衆議院議員になった寿市郎は国にも働きかけ、豊川用水は国営事業として実施されることになったが、昭和恐慌、財政難そして戦争の時代へという流れのなかで、ついに消え去ってしまった。