当時、豊橋市の隣接町村の財政は苦しく、行政機能に支障をきたしており、豊橋市との合併を望む声が強かった。一方、豊橋市にも合併を積極的に進めたい理由があった。工業都市豊橋として飛躍するためには隣接町村の協力はもちろんのこと、広大な用地を必要としたことである。両者のニーズが合致し、豊橋市を中心とする町村合併の動きは活発化した。
昭和二十九年一月、前芝村が正式に豊橋市への合併を申し込んだ。これを機会に、大野市長は市勢振興委員会を設置し、市の将来像と合併の方針を討議させた。その結果、豊橋市は経済圏や生活圏を同じくする渥美郡の二川町・高豊村・老津村、八名郡の石巻村・双和村・三上村、宝飯郡の前芝村・御津(みと)町・小坂井町・大塚村の三町七か村との合併を推進することにした。
しかし、各町村にはそれぞれの思惑や事情があり、簡単には合併は進まなかった。御津町と大塚村は、合併の意志がないことを表明してこの問題から去っていった。豊橋市はそれ以外の各町村と合併懇談会を開いて根気よく円満に対処するように努めた。そのかいもあり、十月に二川町・高豊村・老津村・石巻村・前芝村の五か町村で合併の合意が得られ、昭和三十年三月から豊橋市に編入することになった。
双和村は、昭和二十六年に八名郡賀茂村と金沢村が合併してできあがったばかりの村であった。村議会で豊橋合併を決議したが、金沢地区の一部の人たちは一宮村への合併を強く主張した。そのため、全村挙げて円満に解決することは不可能な状態になった。このような争いは渥美郡杉山村でも見られ、愛知県の案通り田原町へ合併希望するものと、豊橋市へ合併希望するものとに分かれて闘いが繰り広げられた。この二つの合併問題は県議会に持ち込まれ、昭和三十年三月に裁断がおり、双和村の賀茂地区は豊橋市へ、金沢地区は一宮村へ、杉山村の杉山地区は豊橋市へ、六連地区は田原町へ合併することで解決した。この結果、双和村と杉山村は分村するという事態になり、賀茂地区と杉山地区は四月一日から豊橋市へ合併することとなった。
この合併によって、豊橋市の面積は二倍以上に膨れ上がって約二五九平方キロメートルとなり、名古屋市を抜いて県下第一の面積を持つ都市となった。また、人口は二〇万人を越え、豊橋市民が久しく待ち望んだ二〇万都市がここに実現した。豊橋市はこの合併を通して、工業地区造成、豊橋港の建設など産業都市豊橋へ脱皮する基盤を確立したと言っても過言ではない。
しかし、商工業、行政機能が集中した旧市部と農村的な性格を色濃く残している周辺地域との調整を、今後どのようにはかっていくかという課題が残された。
合併後の市勢 |
昭和30年4月 |
区分 | 人口 | 面積 |
豊橋市 | 202,685人 | 259,33km2 |
旧市域 | 163,656 | 116,56 |
二川町 | 14,386 | 42,65 |
石巻村 | 8,379 | 42,81 |
高豊村 | 4,472 | 26,99 |
老津村 | 4,006 | 13,06 |
前芝村 | 3,549 | 2,80 |
杉山地区 | 2,461 | 10,16 |
加茂地区 | 1,776 | 4,30 |
「豊橋市政八十年史」より |
豊橋市域の拡大 「豊橋市政八十年史」より